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連載「三神線全通 苦心の建設史15年」

  • 執筆者の写真: 小鳥 原
    小鳥 原
  • 1月21日
  • 読了時間: 11分

備北の秋に捧ぐ交通文化の饗宴 工費実に865万円

十有五年の歳月と865万円の巨費が投ぜられた待望の三神線(備中神代~備後十日市間)も、いよいよ来る10日同線最終工区備後落合~小奴可間11キロの開通により、ここ備中備北をあげて沸き返る地元民の歓呼と祝福を浴びて全線開業の花やかなスタートを切ることになった。

三神線は"サンシャイン線(太陽照る線)"とも呼ぶべき、奥地資源の開発に文化水準の向上へと国鉄本来の重大使命を帯びて登場するのだ。同線は伯備線備中神代駅から離れ、広島県に入り比婆郡東城・八幡・小奴可・八鉾・美古登・西城・高・庄原・山内東・山内西の3町7村を結び、さらに双三郡和田・田幸・神杉・八次の4村を貫き、同郡十日市町に達するもので、いわゆる山岳高原の横断線として明粧が施されるわけだ。10月の声を聞く奥地の秋色はすでに濃く山の幸が謳われている。

この錦繍の秋を背景に、全通式当日国鉄では「生みの親」米子建設事務所と「育ての親」となる広島・大阪両鉄道局三者合同で招待者1,500名を庄原に招き、盛大な祝賀式を挙行する一方、沿線地元でも最初の起工地である備北側庄原町・備中側神代村がそれぞれ盛沢山の記念行事のプログラムを編み、歌い踊って祝い抜こうと祝賀気分を横溢させている。交通文化の黎明をようやくにして迎え得た備北人たちのこの歓喜の様は、交通文化の恵沢に不感性に近い都会人には到底想像もつきかねることであるかも知れない。備北先覚者たちの血の滲むような苦心の建設史を紐解いてみよう―――。

話は遠く大正9年に遡る。同年第43回議会(臨時)で軽便鉄道として協賛を得、翌10年第44議会に本鉄道として予算の組替えが行われ、進んで12年4月はじめて鉄道省の告示をもって三神線の名称が発表され、建設工事の一切が米子建設事務所に編入されたものだが、これより先11年5月現在の大鉄局側は備中神代より測量着手・昭和3年3月起工し、広鉄局側も13年5月に至り備後庄原より測量に着手し昭和7年3月起工となり、以来両方面から日を逐うて工事は進捗し、今春開業した備後西城~備後落合間を加え逐次部分開業をなすこと5回。その営業キロ数は57キロにおよび、この間昭和8年6月には芸備鉄道備後十日市~備後庄原間21キロを買収。改良工事を加え引続き今回新開通の備後落合~小奴可間の開業により8工区に分たれた大建設工事を遂に見事完成を告げるにいたったものである。

神代から備後十日市まで中間20駅を縫う路線は、建設の秘訣に則り草原を走り山麓をめぐり、努めて工事の単化が計られたにもかかわらず、海抜5・600メートルにおよぶ丘陵地帯のこの沿線は、65ケ所の橋梁架設と14ヶ所のトンネル開鑿を余儀なくした難工事で、今更ながら苦難の建設史とともに鉄道建設当局ならずとも感慨深きものがあろう。

大阪朝日新聞1936年(昭和11年)10月4日付


谷間に聳ゆる鉄橋の脚の高さ まさに山岳列車の異観

三神線全通最後の陣痛であった備後落合~小奴可間は、全線中最大の海抜標高を示し、殊に小奴可・八鉾両村境においては海抜実に625メートルに達するところ、まさに山岳列車の名にふさわしい。明くるに遅い奥地の朝、谷間に湧き山肌深くたれこめる雲霧を衝いて走る列車はたちまち詩的構図を描き、健康的な清澄の大気は紅塵にさいなまれつつある都会人には羨望の桃源郷を展開している。開通準備万端整った新開通11キロに対し、国鉄では全線試運転をも兼ねて7・8両日にわたり新見~十日市間1往復ずつを走行させることになったが、記者はそれより一足先に新区間の横顔拝見と出かけた。

新区間にお目見えする新設駅は、11月21日開業予定の道後山駅1つだけだ。既設備後落合駅は将来木次線の終着駅ともなるところで、機関庫も設置された本格的な駅構えである。駅を出ると間もなく宮ノ谷トンネルと第4小鳥原鉄橋が相接して並び、ホッと一息したところでこんどは小持原トンネルと第3小鳥原鉄橋がこれまた相接して新装を誇っている。線路は山麓に緩曲線を描きつつ、左に西城川上流小鳥原川の清流と県道を従え、三者並行のまま約500メートル進めば、新線名物の一つ土居陸橋(延長165メートル)が控える。

この陸橋は、地盤関係でやむなく特殊工事により建造されたものと聞くが、山肌にぴったり食いついた橋梁の景観は異色に富んでいる。僅々20メートルの延長に過ぎぬが同様地明陸橋を通過して300メートルも走ると、第2小鳥原鉄橋(延長112メートル)に達しここで線路は小鳥原川と県道と交差、左右の位置を変え柏ヶ原トンネルに突入する。同トンネルから300メートルくらいの間隔を置いて宮脇鉄橋(延長98メートル)と第1小鳥原鉄橋(延長146メートル)が巨姿を横えているが、この両鉄橋は第2小鳥原鉄橋とともに米建ご自慢の中空鉄筋コンクリート造りで、橋脚の高さはいずれも19メートルを越え、第1小鳥原鉄橋のごとき堂々27メートルの橋脚を有し、谷間にそびゆるエンジと白の橋は、紅葉の山色と碧空との配合に三嘆の妙色を浮彫して、沿線随一の美しき偉観を呈している。

ここで小鳥原川と永久に袂を別ち、その後国司トンネル・母谷ガードにいたる700メートルばかり県道と8の字を形成しつつ、やがて全線最長の小坪トンネル(438メートル)を貫き、道後山駅に到着する。落合駅から丁度6.8キロだ。道後山駅直西50メートルの箇所は三神線の最高地にあたり、6万立方メートルの切取大工事を施した雄大な両カットが擂鉢型の口を開き、旅行者の目を奪うに充分である。同駅を出てからは、迂回する県道とも別れ、さしたる大カーブもなくほとんど直線コースを辿り、わずかに小奴可駅西150メートル辺りで小奴可川を横断するのみで下り坂の線路を同駅に滑りこむわけだが、、いま北備の秋はすでに深くして、車窓に点描される垂穂の稲田あるいは紅葉の樹海・さらにまた清例の渓川と黄に青赤彩色された景趣は、旅行者に雅趣と詩趣とを惜しみなく饗応している。

大阪朝日新聞1936年(昭和11年)10月6日付


発端は遠く40年前 先覚者の声から遂に実現した4県縦断線

三神線は同音の三新線の文字でも取り扱われて来た。これは、最初議会を通過した建設線名(伯備線新見~三次間)を踏襲したものであるが、同線の実態は伯備線備中神代駅から分岐している関係上、広鉄局では従来の混用を統一して、全通後は三神線と呼ぶことになった。

同線建設の正史的沿革はすでに紹介したが、その外伝ともいうべき地方先覚者たちの苦闘史をいささかここに綴ってみよう。そこには春風秋雨40年の努力が払われて来たのだ。「我らの村にも汽車を通そう」という希望に目覚めたのは今は昔、日清戦役前の話で、当時の要望は東城~西城両町を結ぶ軽便鉄道敷設だったが、日清戦役からやがてまた日露の大戦にぶつかっては、一地方の鉄道問題などに熱をあげてはいられなかったが、戦塵全く治まった41・2年ごろから鉄道熱は再燃。

こんどは一気に路線を新見から三次に延長し、関係町村の大同団結をつくるべく真摯な運動に入り、遂に世界大戦末期の大正7年請願代表40名を糾合し、その連署で県選出6代議士を通じ議会に建議案を提出。翌8年には「輸送転渉と資源開発を計る目的」の期成同盟会の結成準備が進められ、積極的猛運動開始の最中こんどは関東大震災のために頓挫して、とうとう9年は無為に終わり、明けて10年期成同盟会の強化とともに故山本東城町長を会長に戴き中央へ呼びかけ、全国鉄道促成同盟会へ、或いは未成鉄道促成同盟会へ加盟、自らは地方・中央両委員会を選定、県選出代議士を中心に緊密な連絡を保ちつつ上京に次ぐ上京で鋭く政府当局に実現方を迫った。この間政府は、財政緊縮の一本理由で同線の中止或いは繰延をもって応酬せんとし、暗澹たる雲行きを孕んだものだったが、地元民の牢固抜く能わざる結束は、12年の鉄道省告示第61号となり成果を結び、翌13年には当時の仙石鉄道大臣が沿線を巡視する運びとなり、その後はたった一度15年に繰延の悲報に接したのみで、官民相携えこの建設精進がよく今日の輝かしい日を迎えたのである。さて新粧なった三神線の使命は?先ごろ全通した姫津線と結んで、中国の脊椎線となった同線は日本の心臓へ、そして京都からの直通列車が運転されるという画期的な交通革命を持ち来すのみならず、伯備線と連絡し鳥取(米子)・岡山(倉敷)両県への連絡を作り、ここに広島・岡山・鳥取・兵庫の4県に跨る中国地方の縦横断線を形成。さらに目下建設途上の福塩線が12年12月全通(上下~府中間開通)すれば、これまで同じ備後でありながら安芸を迂回せねばならなかった西北部と東南部との握手がここに完成し、さらに近き将来備後落合を終着駅とする木次線及び備後十日市を同じく終着駅とする三江線の2線によって、島根県と連絡して陰陽連絡に一時代を画することとなり、久しく交通不便に浩嘆した中国奥地山間部も、文字通り一躍四通八達の交通網が具現され、交通文化の恩沢を謳歌するにいたるわけだ。木材・木炭・銑鉄・米麦・牛馬・〇〇といったこの地方の主要物産の出荷移動を活発ならしめ、スピード時代の名に相応しく画期的輸送を示現し、大都会との商取引を旺盛に導き需給関係の円滑をもたらすであろうことはいわずもがな、また一面交通の利便は、林産鉱産ともに豊富な沿線地に外来資本の投下を当然予想せしめ、かくてこの地方の繁栄に一大拍車の役割を役割を演ずるであろう。

大阪朝日新聞1936年(昭和11年)10月7日付


気もそぞろに待つ観光客の洪水 わけて帝釈峡・道後山の今後

総てが楽しい語り草となって待ち焦がれた晴れの全線開通を数日後に控え、沿線各町村長らが地元民を代表しまずかたる第一声は異口同音「これで京阪神へはもちろん、広島・下関へも、裏日本でさえも短時間の汽車の旅が自由に往来できる。そしてわが町わが村が経済生活に文化生活に画期的躍進を遂げるのもこれからです」…かくて三神線は、県下の北海道とさえ称せられている備北備中の奥地町村が、あらゆる希望を賭けて自力更生すべき大切な生命線ともなるのである。

最も奥地の小奴可村長渡邊さんはいうのである。

「ゴトゴトの石ころ道に不快な動揺を感じながら通った、あの人力車に乗ることさえ異常なことと羨望され幾十里の峻道もわずか鞋一足に任せ、荷物という荷物はすべて駄馬の背を頼りていた3,40年前のことを思うと、電灯もつけば自動車も汽車もわけなく走っている今日の村の姿を眺めては全く隔世の感ですよ。この上は未だ十分恩恵のゆきとどいていない、恨みある電話と郵便事務の完備を望みたいものです。ただ恐れるのは、恵まれゆく文化の自由が村民の心に弛緩放埒の蝕みをみせはせぬかという一事です。」

宮崎西城町長は

「地勢的に甚だしく立ち遅れていた交通未開の悩みもようやく解消して、我々多年の欲求であった地方産業の開発促進・商取引の拡大伸長は、今後軌道に乗って発展するに違いありません。この与えられた絶好の機会を最も有意義ならしめるため、どうか沿線各町村とも適地適種の企業経営に目醒め、真摯の努力を傾注して将来とも共存共栄の正道を歩んでゆきたいものです」

と、これまた力強い抱負を説き、次に渡邊美古登村長も、

「十幾年間の長い間建設人夫さん方を扶けて、〇寒積雪の日は除雪作業に懸命のお手伝いをし、酷暑の日はまた喉をうるおす清水を汲んで振舞うなど、あの涙ぐましい奉仕をした心がけを村民たちがいつまでも失うことなく"おれ達の鉄道だ"という真面目な心持ちで、お互いに路線の悪用を謹んでゆきたいものと思います。」

と地元民の自覚を過誤に陥らざらんことを願うのであった。さて角度を変えて観光方面からの同線を打診すると、まず真っ先に挙げねばならないのが帝釈峡だ。東城駅から西南12キロ、清流帝釈川の上流部約30キロの間一帯に亘る石灰石の浸食が構成する大峡谷は、天然の奇岩洞窟をはじめ人工の大堰堤・湖水を抱擁して稀にみる奇観はすでにあまりにも有名であり、同峡についで道後山駅東北8キロには、県立公園道後山が大きな魅力を湛え観光客に呼びかけている。冬のスキー・初夏のツツジ・それに頂上近く眺望ひらけたところには珍しい高山植物がお花畑を現出し、放牧された比婆牛が悠遊しているあたり優美な高原風景として登山者に好ましい印象を刻みつける。殊に広鉄局が開局以来、同山の観光宣伝に力瘤が入れられているので、すなわち今冬あたり大小スキーヤーが極楽境だとばかりワンサと殺到することだろう。地元の前田八鉾村長も、

「道後山の観光客誘致は、村繁栄の源泉として村民全部が適当の施設をせねばと乗り気になっています。さしあたりスキー客のため、頂上ヒュッテの大拡張と三坂からの登山道を2ヶ年継続事業で2間幅に改修することに決定しましたし、村にも旅館らしい旅館の1,2軒は持ちたいと考えています。」

と、うれしい気焔であった。また備後熊野駅西北12キロの比婆山麓には伊邪那美命を祠る熊野神社があり、春季祭典には沿線町村民のみでなく遠く広島方面からの参詣者も多く、また同駅が神社に因み社殿風な建築であるのも旅人にはうれしい印象だ。

元来が高原峡谷を縫って走る同線は、沿線自らがすでに観光線として十分の生命を保っているといってもよいほど、車窓に映える四囲の景観は汚れなき美しさに満たされ、呉線の海岸美に対し峡谷美を誇っているわけだ。さらに加えて同線の全通はこの帝釈峡・道後山の観光コースを中心に出雲さん・宮島さん・金比羅さんと山陰・山陽・四国にまたがる三角形の豪華な参詣観光ルートを完成したとで、善男善女はもちろん旅行マニアから大いによろこばれる存在となるだろう。

大阪朝日新聞1936年(昭和11年)10月8日付

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