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準急・急行伝
〜三神線を駆けた優等列車たち〜

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今でこそ閑散ローカル線と化している三神線も、かつて陰陽連絡の使命を負い、ときに都市への足・ときにスキーなど観光活性化の起爆剤となる準急・急行列車が走っていました。このページでは三神線内を走ったこれら優等列車の歴史を辿っていこうと思います。

黎明編(先史)
誕生編(準急運転開始)
飛翔編(さらなる増発と改変)
斜陽編(衰退、そして廃止)

​黎明編

1936年10月10日,三神線は備中神代〜備後十日市(現三次)間が全通し,姫路から広島までの中国山地縦貫鉄道が完成しました。距離にして323km,これは東京から福井・仙台とほぼ同等で,急行や準急といった優等列車を走らせてもいい長さです。
しかし,戦前は特急どころか急行でさえ幹線級の路線しか走らない高嶺の花。沿線に県庁所在地や大都市もない典型的なローカル線であった三神線には,そのような優等列車が走ることはありませんでした。
​ただし「特別な列車が走らなかった」というわけではありません。
​1936年に道後山駅,1938年に国鉄山の家が開業し,当時広島県の
スキーの聖地と謂われた道後山への旅客受け入れ態勢が整うと,
さっそく1939年1月に
白雪號というスキー列車が運転されました。この列車は広島〜道後山間の運行で,
行き:広島深夜25時10分発→道後山朝6時10分着
帰り:道後山夕方17時50分発→広島夜22時05分着

という,スキー臨時列車としてはありがちな半夜行での運行でした。
​使用車両は明らかではありませんが,旧芸備鉄道で走っていたガソリンカーが使われていたという話が伝わっています。

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​「白雪號」運転の告知記事
(中国新聞1939年1月8日夕刊)

白雪號は1939年は1月〜2月の毎週末1往復運行,翌1940年も同じような形で走りました。
​今のところ,1941年以降の運行は確認されていません。さすがにこの頃になると戦時体制に逆らえなくなり,大っぴらに行楽列車を走られることはできなくなったのであろうということが推測されます。
こうして白雪號の時代は二冬で終わり,そのまま終戦,戦後と時代は進んでいきます。
戦後の混乱が落ち着いた1950年以降,全国各地で急行・準急列車が運行を始めました。芸備線でも週末運行の快速から始まった陰陽連絡列車
ちどりが準急→急行と出世を重ね、やがて芸備線を代表する列車となっていきました。
​しかしちどりの芸備線での走行区間は広島~備後落合だけ。備後落合からは方向を変えて木次線に乗り入れていきます。東城方面には、乗り入れるどころか備後落合で接続する列車もありませんでした。いちおう1954年の夏に道後山まで乗り入れる編成を臨時増結していますが、それも結局この一夏のみ。ふたつの陰陽連絡路線に挟まれた三神線はポツンと取り残される形となっていたのです。
​しかし、沿線は帝釈峡・道後山といった広島県を代表する名勝が並び、工業・林業の盛んな東城町もあります。近隣の路線が準急運転・気動車(ディーゼルカー)導入とどんどん近代化・輸送力増強が進む中、本区間でも同様の施策を求める声は日に日に増していきました。その働きは1961年、実を結びます。

​誕生編

1961年夏、いよいよ沿線待望の的である準急列車が、臨時ながら運転されました。帝釈と名付けられたこの列車は、岡山から伯備線経由で道後山まで、夏休み期間中の日曜日に運行。岡山から県境を越えて、帝釈峡や道後山までの日帰り旅行を可能にしました。使用車両は定かではありませんが、何かしら気動車が使われていたという記録が残っています。また、上りだけですが、備後八幡にも停車していたというのも特徴です(飯山や徳雲寺あたりの観光客向け?あるいは列車交換待ちのついでか?)。帝釈の運行はこの夏のみでしたが、手応えはあったようで、すぐさま定期列車の設定計画が進む運びとなりました。
そしてついにその日がやってきます。
1962年3月15日ダイヤ改正で、本区間初めての定期優等列車となる
しらぎり」「たいしゃくという2つの準急列車が運転を開始しました。

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​臨時準急「帝釈」の時刻表
​交通公社時刻表1961年7月号より

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この2列車は両方とも気動車が使われ、速度・快適性ともに今までの鈍行から大いに向上しました。
まず「しらぎり」は、ちどりで使用実績があったキハ55系を使って、広島〜新見〜米子間で運転。広島を朝に出て夜に帰るダイヤだったので、広島から道後山や帝釈峡に行くのに便利な列車となっていました。また、広島〜米子はちどりより30分以上速く移動でき、陰陽連絡の需要もかなり大きいものでした。
​準急しらぎり
広島発8:27→備後落合発10:36→
道後山発10:48→東城発11:13→
新見着11:43→米子着13:29

米子発15:13分→新見発17:08→
東城発17:42→道後山発18:10→
備後落合発18:21→広島着20:37

一方「たいしゃく」は「しらぎり」よりやや変わった列車でした。

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「しらぎり」「たいしゃく」運転開始時の記念準急券

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​「たいしゃく」に使われたキハ20(写真は水島臨海鉄道の同形式)

​まず使用車両は普通列車で使われるキハ20。車内デッキも無い、一段格落ちと言われても仕方ない車両でした。しかも新見~三次間(1964年からは新見~備後落合間)は単行、なんと1両編成での運転だったのです。たしかにこれでも従来の旧型客車よりは設備は優れていましたが、それにしても1両だけのローカル然とした気動車が、準急として快走する姿は、当時としてもなかなか珍しかったと思います。
​さらに運転区間は岡山〜広島。なんとこの2都市間を伯備線・芸備線経由で結んでいたのです。全区間乗ると所要時間は5時間。山陽本線経由の特急つばめの倍かかっていました。もちろん通しで乗る人はいなかったでしょうが、これまた今では考えられない要素です。ダイヤは臨時時代を引き継いだような、岡山朝発・夜着のものとなっていました。
準急たいしゃく
​岡山発10:13→新見発11:58→東城発12:31→道後山発13:02→備後落合発13:11→広島着15:37
広島発13:23→備後落合発15:44→道後山発15:58→東城発16:22→新見着16:54→岡山着18:38

ちなみにこの2列車は、両方とも伯備線内で準急「しんじ」と併結していました。新見でどちらか一方が「しんじ」と別れ、直後もう一方が繋がれるという、時計仕掛けのような器用なダイヤが組まれていたのです。
このように周辺各線に遅れを取りながらも運転を始めた本区間の準急列車は、沿線の好評や観光ブームも相俟って、更なる発展を遂げていきます。

1962年頃の三神線周辺の急行系統図

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週末準急ゆばら

1963年1月26日からの1ヶ月間、週末1往復のみですがゆばらという臨時準急列車が津山~広島間で運行されました。広島から蒜山高原のスキー場や湯原温泉郷へ向かう需要を狙ったものです。広島発は「しらぎり」、津山発は「たいしゃく」と併結し、ただ行って帰るだけでなく、途中道後山駅裏手の高尾原スキー場への立ち寄りも勧めるなど、既存の行楽需要の喚起も努められていました。

↓週末準急「ゆばら」案内パンフレット→

​飛翔編

1966年から69年まで、本区間の優等列車は小刻みに変化していきます。
​まず1966年3月、芸備線の準急はすべて急行に格上げされました。もっともこれは料金改定の都合なので、あまり嬉しい話ではありませんが。(たいしゃくはキハ20単行の急行に!)また「しらぎり」には、この頃から一等車(現在のグリーン車)が連結され始めたようです。
​1967年10月のダイヤ改正では、新しい急行ひばの運転が始まりました。この列車は新見を早朝出て夜帰るダイヤ

芸備線の新しい急行列車の名前募集
急行ひば号案内パンフレット
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新しい急行の名称募集と案内パンフレット

を組んでおり、陰陽連絡や広島起点の利用の陰に隠れ、あまり顧みられることがなかった備北→広島の需要を狙ったものとなっていました。「ひば」の名も比婆山・比婆郡から採られており、まさしくこの地域向けの列車であったことが伺えます。
急行ひば
​新見発6:30→東城発7:00→道後山発7:28→備後落合発7:43→広島着9:58
広島発16:30→備後落合発19:24→道後山発19:37→東城発20:04→新見着20:35

もっともこの名前はわずか1年で消えることとなってしまいました。
​1968年10月の全国ダイヤ大改正、このとき列車愛称の整理が行われ、似た区間を走る優等列車は名称がい本化されました。結果「しらぎり」は「ちどり」に、「ひば」は「たいしゃく」に取りこまれたのです。
しかし、「ひば」と「たいしゃく」はともかく、「しらぎり」と「ちどり」は備後落合以北の経路が大きく違うのにひとまとめにして大丈夫だったのかという疑問が残ります。(広島から木次や雲南地域に行きたい人が、旧しらぎり便に乗ったらかなり悲惨なことに・・・。)
1969年10月には、停車駅に変化がありました。「たいしゃく」のうち新見朝発夜着の便が道後山通過・小奴可停車に切り替えられたのです。もともと地元から停車の要望があったのも理由ですが、たしかにこの時間帯なら道後山への行楽需要も少ないだろうし、林業・建設業がそれなりに盛んだった小奴可への停車は妥当かと思われます。この道後山通過→小奴可停車の措置は、後年ほかの列車でも行われていきます。
急行たいしゃく
下り1号:東城発7:00→小奴可発7:21→備後落合着7:37
上り2号:備後落合発19:20→小奴可発19:39→東城着19:59

​ここからしばらくはこの「たいしゃく」「ちどり」体制が続きますが、1972年3月のダイヤ改正で大きく様変わりすることになります。山陽新幹線が岡山まで開業、これにより伯備線が陰陽連絡線としての機能を強化することになり、芸備線からの急行を乗り入れさせる余地が無くなってしまったのです。かくして「たいしゃく」は新見〜広島間のみの運行となり、旧しらぎり・初代たいしゃくの系統は10年で姿を消すこととなりました。(車両も置き換えられてキハ20単行の急行はようやく消滅!)
​一方で伯備線に代わる新しいルートの開拓が行われました。このダイヤ改正で、新見から姫新線に乗り入れる急行やまのゆが新たに登場。上述の「ゆばら」のように広島から蒜山高原・湯原温泉郷に向かう行楽需要を狙ったダイヤ設定がされました。
急行やまのゆ
広島発8:30→備後落合発10:43→道後山発10:57→東城発11:22→新見着11:50→津山着13:30
津山発10:28→新見発12:08→東城発12:39→道後山発13:07→備後落合発13:23→広島着15:51

​普段は自由席のみの2両編成でしたが、行楽シーズンには中国勝山止まりの指定席も増結されたようです。
​そしてこのダイヤ改正による改変で、三神線内の急行の最終体制が確立されました。

スキー臨時列車「道後山銀嶺」

1950年代以降、各地でスキー場へ向かう臨時列車が運転を始めました。無論スキー場銀座である芸備線沿線でも走り出しましたが、ほとんどが備後落合から木次線に入り、三井野原に行くものでした。
その数少ない例外として、1972年の1月・2月のみ「道後山銀嶺」というスキー臨時列車が運行されました。もっとも"運行"とはいえ固有のダイヤは設定されておらず、行き帰りともに既存の急行に併結された、いわば増結車のようなものでした。これに合わせるように、普段は道後山を通過する急行列車が休日臨時停車するなど、スキーヤーを呼び込むための体制が整えられました。これ以降道後山駅は無人化や急行停車の減少が進んでいくことを考えると、この年の冬こそ道後山駅が最後に輝きを放った時なのかもしれません。

臨時急行「道後山銀嶺」(全車指定席)
広島発13:18→備後落合発15:51→道後山着16:08(岡山行きたいしゃく1号に併結)
道後山発18:21→備後落合発18:34→広島着20:55(米子発ちどり3号に併結)
運行期間:広島発1月22・29日、2月5・10・12・19・26日
​      道後山発1月23・30日、2月6・11・13・20・27日

​斜陽編

1975年3月のダイヤ改正で、道後山駅に停まる急行が無くなりました。無人化されたうえに、道後山へ向かうバスが備後落合駅発に変更され、もはや道後山駅に急行が停まる理由は皆無となっていたのです。かくして三神線内の急行停車駅は東城・小奴可・備後落合に固定となりましたが、それも長くは続きませんでした。すでに沿線は過疎化が進んでおり、合理化の対象となるほどに利用客は減少していたのです。さらに1978年に中国自動車道が三次まで延びると、新見~三次は自動車利用にシェアを奪われ、ますます乗客減に拍車がかかりました。
​1980年10月1日、この日のダイヤ改正でついに新見~備後落合間の急行列車は全廃。「たいしゃく」の名はかろうじて残されましたが、備後落合以東は普通列車に格下げされました。また「やまのゆ」は完全に廃止され、1936年の三神線全通以来走り続けてきた姫新線~芸備線の直通列車は姿を消すことになりました。この「急行崩れ」の普通列車は2往復→1.5往復と数を減らしながら運行され、その歴史の幕を下ろしたのは1991年3月15日のことでした。
なお芸備線の急行列車は、1990年の木次線乗り入れ終了、2002年のちどり・たいしゃく廃止を経て、2007年6月30
日に「みよし」が廃止されるまで運行されました。

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急行で使われたキハ58系列キハ28(写真はいすみ鉄道の同形式)

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芸備線の急行最末期の姿

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本項掲載の資料は長船友則氏収集資料(広島県立文書館所蔵)より抜粋
写真は管理人撮影

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