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思い出の高尾原スキー場

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そこに確かにスキー場があった

道後山駅裏手の小高い丘、
道路工事が進められているその後ろ。
そこはかつて「高尾原(たかおばら)スキー場」という小さなスキー場でした。
​駅からすぐの好立地で、60年以上の間
多くの人々を楽しませてきたスキー場の
面影は、廃業から10年近く経とうとしてる今ほとんど失われています。
​ここでは高尾原スキー場の歴史や、失われたスキー場の風景を、ささやかながら
載せていこうと思います。

←国道314号沿いに立っていたスキー場への
​ 案内板。道後山駅への目印にもなっていた。

小史 (画像はクリック・タップで拡大表示します)

道後山駅裏手にスキー場が完成したのは、1952年(昭和27年)の新春のこと。満州から引き揚げ、高尾に移住してきた平尾久(ひらおひさし)氏によって、自宅裏山の道後山駅側斜面に作られました。この山には古くは細川たたらが置かれ製鉄が行われたほか、練炭の材料となる土を掘り出して、広島の工場へ貨物列車で運ばれていたといいます。翌1953年(昭和28年)には「高尾原スキー場」の名を戴き本格開業しました。
​スキー場には開業当初から手回し動力のロープトー(吊り下がり式の簡易リフト)が設けられ、これは広島県内では2番目、道後山スキー場に続いての設置でした。また、ゲレンデの麓には「高尾原荘」というスキーハウスが置かれ、貸しスキーや食堂・宿泊の便宜が図られました。
道後山駅の目の前という好立地もあって、当時列車利用が大多数だったスキーヤー達からもこのスキー場は人気を博しました。ゲレンデの傾斜が緩やかで難易度が低いということで、道後山へ行く前の足慣らしや、初心者・家族連れの利用が多かったといいます。また、広島側からよりも岡山や東城から来る人が多かったということです。一番賑やかだった頃は、スキーハウスだけでは宿泊客を賄えきれず、平尾宅の2階にもスキーヤーが寝泊まりしていたそうです。
このように人気を博した高尾原スキー場も、道後山駅の利用低迷、スキー人口の減少などが重なり、次第に人が寄らなくなっていきました。それでも2011年までは一応営業が続けられ、「知る人ぞ知る」隠れ家的な小スキー場として利用されていました。しかし2015年、江府三次道路の鍵掛峠区間の工事が始まり、道路用地や資材置き場となる高尾原スキー場は、ゲレンデを残して全ての施設が解体撤去されました。なお、ロープトーや排雪モービルは同じ西城町内の県民の森スキー場に譲渡されました。

1952年1月10日、道後山駅裏にスキー場完成の第一報

平尾久氏近影
高尾原スキー場&道後山駅、昭和30年頃

高尾原スキー場を作った
​平尾久(ひらお ひさし)氏

道後山駅下りホームとスキー場
​(昭和30年頃)

1953年の新春広告。名立たる名所・名物と肩を並べて
新鋭高尾原スキー場が名を連ねている。

道後山&高尾原スキー場案内図
高尾原スキー場ゲレンデ、昭和30年頃

↑昭和30年頃のゲレンデ
 右の小屋は貸スキー屋

道後山の案内にも描かれた
高尾原スキー場(昭和40年頃) 

道後山スキー場の案内に載った高尾原スキー場の盛況
​(昭和40年頃)

2000年頃の高尾原スキー場案内

なお上記の小史は、平尾久氏の娘婿で、奥さんとともにスキー場を管理していた平尾隆さん(道後山駅近く在住)から伺った話をもとに作られました。
ご協力ありがとうございました。

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シイタケ栽培にも長けていた久氏は、多くの賞を獲得してきました。中には鈴木善幸(第70代首相)や安倍晋太郎(安倍晋三の父)といった面々から授与された賞状も。

末期の高尾原スキー場(2010~15年撮影)

スキーハウス高尾原荘内部

2015年3月、江府三次道路鍵掛峠区間の
工事が始まったことに伴い、
道路用地となるスキーハウスと桜並木は
​すべて解体・撤去されました。
また、ゲレンデも麓部分が削られ、
高規格道路へ生まれ変わろうとしています。

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