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東城・帝釈幻の“電車“
備後電気鉄道計画を追う

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東城駅にやってくるのは「気動車」です。
俗語的に「電車」と呼ばれることもありますが、電気を動力にした車両は走っていません。
しかし、もし時代が許していれば、東城、さらには帝釈峡に、正真正銘の「電車」が走っていたかもしれないのです。
​ここではその幻に終わった鉄道、「備後電気鉄道」について見ていこうと思います。

←こんな東城駅の風景もありえた?

その計画

備後電気鉄道
その名前で鉄道免許の出願がされたのは、まだ三神線が東城まで達していなかった1928年(昭和3年)8月15日のこと。深安郡川北村(現福山市神辺町)の神辺駅から神石郡各町村・帝釈峡を経由して東城町に至る路線と、神石郡新坂村(現神石高原町)から甲奴郡上下町(現府中市上下町)までの2路線、営業距離が合わせて72kmとなる、壮大な鉄道計画でした。それだけ大きな計画ともなれば、より多くの人の協賛・支援も必要となります。この計画の発起人は名簿に載っているだけでも300人以上!沿線となる福山・神石・甲奴・東城はもとより、広島市やさらには県外在住の人も名を連ねていました。
もう少し詳細を見ていきます。

軌間(レール幅)は1067ミリ。国鉄在来線と同じ幅で、いざとなれば車両の直通も可能となっていました。実際神辺から福山への直通には意欲を示しており、会社事務所も福山市内に置かれる手筈となっていました。しかし当時神辺~福山間は、両備鉄道(現在の両備バスとは無関係)という線路幅の狭い軽便鉄道だったので、このままでは直通運転ができません。ちょうどこの頃国鉄が両備鉄道を買収し、線路幅を広げたうえで三次まで延伸(現在の福塩線)しようと交渉している最中でした。備後電気鉄道はこの買収が成り立つ前提で、神辺を起点としたようですが、もし交渉や線路幅を広げる工事が長引いた場合は、神辺からさらに深安郡市村(現在の福山東インター周辺)を経由し福山駅までの路線を自力で建設するつもりだったようです。
計画されたルートを見てみると、まず本線は神辺から北上し、グネグネ右に左に曲がりながら神石郡各町村を結び、帝釈峡神龍湖付近から現在の県道25号線に沿うようにして東城まで繋ぎます。現在の東城町域には、東城・友末・久代・帝釈峡・郷原の各駅が置かれる予定でした。また、久代〜帝釈峡の間には、新坂隧道という長さ60mほどのトンネルを掘る計画だったようです。帝釈峡から上下までの支線は、神龍湖より先ほぼ県道25号線に沿ったルートとなっていました。
車両は費用の概算書によれば、電気機関車5両・客車10両・貨車15両を入れる予定でした。しかし、2路線70キロの運行を捌くにしてはあまりに少なすぎるので、実際はもっと多くの車両を入れるつもりだったのではないかと推測されます。建設費は用地代・工事費用など合わせて600万円、年間収入はおよそ112万円、費用を差し引いた利益は年69万円と見込まれており、9〜10年で建設費を回収できる計算となっていました。貨物輸送については、東城方面からは農産物や木材、神辺方面からは海産物の輸送を主力として考えられていたようです。

ここまで壮大かつ綿密な計画が立てられていた備後電気鉄道ですが、残念なことに「鉄道が必要な輸送状況とは認められない」という理由で1931年(昭和6年)8月4日に敷設願は却下されてしまいました。もっとも、当時は昭和の金融恐慌真っ只中で、多くの建設予定だった私鉄路線が計画を断念していたころ。仮に備後電気鉄道の建設許可が下りていたとしても、同じような運命を辿っていたと思われます。

備後電気鉄道の出願書類

東城町の発起人署名欄
現在も町内で商売をしている名前が多く見られる

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備後電気鉄道の計画路線図
周辺私鉄と比べるとかなりの長距離路線となる

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帝釈峡付近の線路計画図
​ダム嵩上げ前の神龍湖に橋が架けられている

東城付近の計画図。
現在の東城インター付近から市街地を囲むように通り、三神線と合流する計画だったようだ。

ではもしこの鉄道が実現していたら?

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備後電気鉄道予想路線図

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備後電気鉄道列車系統予想図

帝釈峡駅推定地点

はじめに身もフタも無いことを言うと、現在まで全線存続するのはかなり厳しかったと思われます。なにしろ現実でも路線バスが廃止・大幅減便されている区間です。仮に鉄道開通の結果人流や人口変動に影響があったとしても、鉄道を維持できる程の人口は集められなかったと考えられます。おそらく多くの地方私鉄と同じように、上下~帝釈峡は昭和40年代に廃止。油木~東城は国道182号の改良が進んだ1983年以降存廃の議論が進み、残っても神辺~油木(もしくは小畠)ぐらいだったのではないでしょうか。(この場合神石高原町は福山のベッドタウンとなり、もう少し人口が増えていた?)
…と、これで終わってもつまらないので、ここからは全線残っていた場合について考えてみましょう。
路線は神辺~東城の本線と、途中帝釈峡から分かれて上下まで行く上下支線の2線、営業距離は72キロと地方私鉄としてはなかなか規模の大きいものとなります(近いところでは大井川鐵道65キロや神戸電鉄69.6キロなど)。車両基地は敷設願添付の予測平面図に描かれていないのでどこに置かれるかは不明ですが、おそらく分岐駅となる帝釈峡駅かその周辺の駅に併設されたのではないでしょうか。また、予想(というか個人的願望)ですが、東城町役場(市役所支所)が現在の場所に移転するぐらいのタイミングで、友末~東城間に川東新駅が設けられたのではないかと思います。
列車系統は、本線では普通・快速(急行)・特急の3種類でしょうか。普通列車は多くても神辺~油木が30分間隔、油木~東城は60分間隔程度の運転頻度と思われます。準速達となる快速は1~2時間に1本間隔。油木・帝釈峡~東城の区間は各駅停車となり、普通の代替となっていたと考えられます。線路容量に余裕があれば、神辺から福塩線に乗り入れて福山まで運行してほしいところです。最速達の特急は、週末の行楽向けのダイヤ設定となっていたのではないでしょうか。福山を朝に、東城・帝釈峡を夕方発つダイヤで、日に2,3往復くらいだったかと推測します。また、国鉄時代であれば、行楽シーズンには広島・岡山方面から直通運転がされていたのは確実でしょう。広島からは急行「たいしゃく」が東城より、岡山側からは神辺より乗り入れていたのではないでしょうか。上下支線は各駅停車のみで1~2時間に1本、帝釈峡止まりが基本で、朝夕に東城方面に直通していたのではないかと思います。
​この鉄道が及ぼす社会的影響として考えられるのは2点。
まず東城の福山志向が実際より大きくなることです。1時間間隔でも芸備線より本数が多いので交通流動も大きくなり、中国自動車道開通までは東城~福山の交流が盛んになっていたことでしょう(たとえば自動車も福山ナンバーに!)。また、神石地域とのつながりも深くなるので、もしかしたら平成の大合併では東城町と神石郡各町村で合併していたかもしれません。

また、この鉄道ができていたら周辺の交通体系も大きく変わっていたでしょう。現在この地域を走っている中国バスは、1930年代から会社合併を繰り返して今の運行範囲になった歴史があります。その合併に備後電気鉄道が加わり、鉄道が地域交通の基幹になっていた可能性は十分に考えられるでしょう。具体的に言うと、福山~東城の直通バスは廃止され、神石郡域の地域輸送メインになったり、帝釈峡駅からスコラ高原や上帝釈への連絡バスを走らせていたものと思います。また、周辺の私鉄(鞆鉄道や尾道鉄道など)との合併や車両・設備の融通もあったかもしれません。

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