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LAST SEITETSU
-帝国製鉄興亡史-

備後八幡駅のホームから川の方を眺めると、1本の廃橋が架かっているのが見える。
この辺りでは珍しいトラス橋。それは東城地域最後の製鉄の数少ない名残である。
大いなる熱意が生み出した東城最後の製鉄工場「帝国製鉄」の歴史を追っていこう。

1.残りカスが繋ぐ命脈

古きを捨て新しきが重んじられた明治時代、中国山地の一大産業である「たたら製鉄」は危機に瀕していた。
安い外国産鋼材の輸入や洋式製鉄の普及など様々な理由が重なり、いかに質のいい鉄を作れるとしても、コストや生産量で劣る旧来の製鉄法では太刀打ちできなかったのである。かくして中国山地の村々に点在していた製鉄場は、大小問わずたちまち廃業に追いやられていった。

無論たたら製鉄の側も、座して死を待っていたわけではない。従来より大量に、より効率的に鉄を作る努力はされていた。
特に画期的なのは、小花冬吉が考案し、黒田正暉が実用化した鉄滓吹き(てっさいぶき)製鉄法である。つまりたたら製鉄の中で生まれる、鉄と不純物の混ざった残りカス「鉄滓(かなくそ)」を木炭と一緒に燃焼させ溶かし、鉄を取り出す製鉄法だ。これは当時産業廃棄物として大量に放置されていた鉄滓の再利用にもなり、しかもわざわざ土を掘って鉄穴流しで砂鉄を採る必要も無いので、労働面でも効率的な製鉄法であった。そのうえ品質は旧来の製法のものと変わらないのだから、いいことずくめである。
だが新技術というものは、それを使う者が現れなければ日の目を浴びることはない。事実小花や黒田が属していた官営広島鉄山は、この製法が実用化される前に閉鎖の憂き目に遭ってしまう。
では、この新しい製鉄法は生かされなかったのか?
…否、民間の中にこの技術の可能性を見出す者が現れた。
その人の名は野島国次郎(のじまくにじろう)。人は彼を怪偉と呼んだ。

野島国次郎近影

2.野島国次郎という男

野島国次郎は1868年7月19日、比婆郡東城町野島庸三の次男として生まれた。成人すると分家となるが、野島本家は父の代から傾きつつあり、これを立て直したいと
志したのが、実業家としての始まりであった。
​もともと野島家は山林地主で山や林業に強い。国次郎もまずはこの分野での再起をはかり、近隣の山林をひたすら買いあさった。それも交通不便な奥地の場所を選び自前で道を通すという手法で、少しでも安く大量に山林を手に入れたのである。大正期の調査ではその所有面積3,317町歩(約3,300ヘクタール)にもなり、これは2位に倍以上の差をつけて県内ぶっちぎりトップであった。この山林が生み出す富と薪炭を使って、国次郎は新事業に乗り出す。それが製鉄であった。
​時に1895年(明治28年)、おりしも黒田が鉄滓吹き製鉄法の実用化に目途をつけた頃であった。国次郎は黒田より技術指導と支援を受けて、ついに比婆郡美古登村大屋(現庄原市西城町)に桂谷製銑工場を開設する。一日の生産量は2トン程度とまだまだ小規模であったが、まずは第一歩を踏み出してみせた。

国次郎はこの一か所にとどまらず、1901年(明治34年)には山県郡山廻村大暮(現山県郡北広島町)に大暮工場を開業。ここでは1日13トンの生産が可能となり、着実に製鉄の質も量も上がりつつあった。やがて国次郎の生み出す鉄は大暮木炭銑鉄と名付けられ、これが後々まで続くブランド名ともなった。1914年(大正3年)にはこの大暮工場を主体とした中国製鉄株式会社を設立し本格的な経営に乗り出す。折しも第一次世界大戦で鉄の需要が高騰していた頃、それに合わせて国次郎の事業も急拡大していく。1917年(大正6年)鳥取県に下西工場、島根県に都賀工場を開き、さらに中国製鉄とは別に山陽製鉄株式会社を起業し、比婆郡上高野山村工場を開業。翌1918年(大正7年)には比婆郡田森村に東城製鉄株式会社を設立し、同地での木炭製鉄を開始した。この後も国次郎の勢いは止まることなく、兵庫県千種村や島根県浜田町で工場を稼働、山県郡に太田川製鉄を開業するなど、各地で木炭製鉄の火を起こしていった。
だが世界大戦が終わると、銑鉄の需要はあっという間に急落。他の戦争成金と同様に野島も一気に窮地に立たされる。各地に立てた工場は5年以内に全て閉鎖され、次々設立した会社も1925年(大正14年)までには全て倒産の憂き目に遭っている。普通ならここでジ・エンドだろうが、国次郎はまだへこたれていなかった。20年弱という時間は、彼を木炭製鉄に惚れこませるには充分だったのだろう。時代が大正から昭和に移り変わると、彼は再び製鉄の表舞台に上がり込む。

正真正銘東城町の製鉄場「備後製鉄」
1918年8月、東城製鉄の元従業員をはじめとした7名によって​東城町川西に備後製鉄株式会社が設立された。どうも東城製鉄の成功を見た町の有力者が、その流れに乗っかろうと同社の技術社員を引き抜いたらしい。製法は東城製鉄と同じ鉄滓+木炭であるが、送風機の動力に電気を使うなど生産量アップが図られたようである。
1921年(大正10年)より操業を開始したが、品質は東城製鉄のものより劣り「東城製鉄鉄を吹く、備後製鉄泡を吹く」と町の者から笑いものにされたそうだ。結局戦後不況と経営の未熟がたたり、備後製鉄はその後すぐ倒産したという。

備後製鉄の大煙突が描かれた絵(五品嶽より引用)
煙突は昭和初期に爆破解体されたという

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