top of page
道後山~備後落合間、線路脇の石碑の謎
私が「それ」に気づいたのは、
2016年夏のことだった。
14時30分頃、乗り換え客の喧噪を聞きながら
備後落合を発った新見行き列車は、
のそのそと山裾を北上していた。
駅を出て、5分くらいだっただろうか。
何の気なしに、木々の隙間から車窓を見ようとしたとき、
「それ」が目についた。
左の動画の7~8秒くらいだ。
線路の左手に見えたのではなかろうか。
・・・え?木や草が多くて見えない?
じゃあ、もう少し鮮明に見える動画を。
!!!
何か石碑がある‼︎
縦長の岩が直立してるんだ。それっぽく
見える落石だなんてことはあり得ない。
それに…チラッとだけど見えてしまった。
石に何やら文字が
彫られているのが。
元来道端に立つ石造物の類が好きな私が、
食いつかないわけが無かった。
こうして私はささやかながら、この奇妙な
石碑に関して、調査を始めたのであった。
まず正確な位置を確認してみよう。
石碑が置かれているのは、左図の★の位置。八鉾自治振興センター(旧小鳥原小学校)裏手の辺りだ。線路は山にへばり付くように通っており、ふもとからかなり高い位置を走行している。そして、この石碑周辺に登っていける道は通っていない。
つまりこの石碑は、ふもとの集落から見に来ることは想定されてない可能性が高い。ということは、どちらかと言えば関係がありそうなのは、鉄道そのものであろう。
そこでまず真っ先に出た推測は、
三神線の線路締結・
全工事完成記念碑だ。
線路脇に建てられたなら、線路だとか工事に関するものだろうと考えるのが自然である。
しかし、道後山〜備後落合間の工事完了地点は、もう少し北の小鳥原第1鉄橋の辺りである。さすがに離れすぎている感はあるし、そういう記念碑的なものは、それこそ路線のシンボルとも言える小鳥原の大鉄橋の近くや、もっと人に見せるような位置に置くものではないかという疑問も湧いてくる。
…もしかして、どうしてもあの場所に建てなきゃいけない理由があったのだろうか?
誰も寄り付かないような辺鄙な位置に建てる理由。例えば、、、そこで誰かが死んだとか!
ということで、第2の推測は殉職慰霊碑である。なるほど、山に張り付くように線路が通ってるこの立地状況は、何らかの事故や災害が起きても逃げ場が少なく、最悪死に至る可能性が高い場所だ。
ただ、芸備線や鉄道事故に関する史料を見ても、この区間で事故が起きたという記録は幸いなことに皆無である。ということは、殉職碑とすれば災害によるもので間違いないだろう。
と、ここまでグデグデと述べてきたものの、所詮はすべて推測である。これ以上現代の余所者が考えたところで何の手がかりも正解も得られないだろう。
分からないときは素直に知ってそうな人に聞く‼‼
・・・ということで、当事者ともいえる2つの場所にメールを送ってみた。ひとつは、線路の主であるJR西日本。もうひとつは石碑が置かれている地域、八鉾自治振興区である。
それぞれにメールを送ったのは、はじめて石碑を見つけてからすぐ、2016年8月のことである。そして幸い2件とも早くに返事を貰うことができた。
ではまずJR西日本からの回答---。
芸備線:道後山~備後落合間の線路横にございます石碑ですが、
芸備線建設中に亡くなった作業員のための石碑(墓石)であることがわかりました。
しかしながら、相当年数が経過しており、石碑に刻まれている文面や
いつ頃建てられたものか等の詳細はわかりませんでした。
なお、石碑は芸備線の線路横に建てられているため、
一般のお客様が立ち入ることはできません。
JRからは建設工事で殉職した人の墓碑だという解答を得た。
確かに難工事となった区間だから、殉職者が出ていてもおかしくはないだろう。
一方、八鉾自治振興区からは、また違う回答が返ってきた。
大変遅くなりましたが、ご質問に関し赤字で回答させていただきます。
なお、ご協力くださいました方は旧国鉄に務めておられた方です。
具体的に亡くなられた方の固有名詞までお話をいただきましたので
まず間違いないと思います。
①石碑には何と刻まれているのでしょうか?
※わかりません。
現地に出向けばわかると思いますが、危険を伴いますのでご容赦
願います。
②何に関する石碑なのでしょうか?
※電力関係の職員の方が、巡回点検中落石に遭遇し、お亡くなりに
慰霊を込めて建てられた石碑のようです。
お亡くなりになられた方の苗字は「伊達様」とのことです。
③石碑に関する出来事はいつ頃起きたのでしょうか?
※昭和20年~30年頃
④現在この石碑を訪れる人はいるのでしょうか?
※わかりません。
⑤石碑が克明に写ってる写真や映像などはあるでしょうか?
※八鉾自治振興センターでは見当たりません。
工事ではなく,開業後の巡回作業中に事故死した職員の慰霊碑だった!!!
JRの返答とは大きくズレているが,おおよその年代や名前も出ている以上こちらの方が信憑性が高いだろう。
(滅多に気に留めることのない石碑についていきなり尋ねた以上,誤りだとしてもJR西日本を責めることはできまい)
ただ,自治振興区側でも名前と年代しか把握できてないようで,具体的に何が刻まれているのかとか,殉職に至った詳しい経緯とかは分からずじまいだ。
とりあえず確定とみていいのは,
①石碑は殉職慰霊碑である。
②石碑へのアプローチ方法は現在皆無である。
③②故に,石碑に訪れる人はおろか、存在を知っている人もほとんどいないと思われる。
ということだろう。
で、結局石碑には何が書かれているの
正直現在もはっきりとは分かっていない。
なにしろ線路のすぐ脇に置かれているので、
時速2,30キロの徐行運転でも一瞬で横切ってしまい、
全ての文面を読み取るのは難しいのだ。
それでも、ビデオカメラによる追いかけ撮影で、
石碑の題字は辛うじて読み取ることができた。
伊達哲次君殉職碑---
名前からしても、八鉾自治振興区からのメールの内容と一致する。ほぼ正解が出たと言っても過言ではないだろう。
道後山~備後落合間、小鳥原の線路脇に置かれている石碑、これは昭和2~30年代に落石事故で殉職した、伊達哲次という電気作業員の慰霊碑である。
これがファイナルアンサーだ。
あとは、この事故の詳細(起きた日時や経緯)を詳しく調べていきたいが、これまた難儀な調査となるのは間違いないだろう。「電力関係の職員」ということなので、岡山鉄道局もしくは電力会社の職員録などを漁れば何か新たな発見があるかもしれない。
真相判明!!!(2024/6/9追記)
この件はコラム掲載以降も、機会があれば新しい情報がないかあちこち探っていたが、2024年6月ついに石碑建立のきっかけとなった出来事に関する重要情報にたどり着いた。
きっかけは国会図書館収蔵資料の調査である。電力会社にしろ、国鉄職員にしろ、重要インフラの要員である。もし事故死した場合、何らかの公的な記録が残されているはずと踏んだのだ。
果たして「伊達哲次」で検索した結果…。国立国会図書館デジタルコレクションで運輸公報357号(運輸省大臣官房 1956年6月29日刊)を見ることができた。
いた~~~~っ!!
"日本国有鉄道職員 伊達哲次"
"木杯一組を賜わる"
って堂々と書いてある!
・・・いや待て待てまだ確定というわけじゃないぞ。
だって八鉾自治振興区の人は電力会社職員って言ってたじゃないか。
仮にほんとは国鉄職員でした、だとしても、この伊達哲次さんとは限らない。
なにしろ国鉄といえば「大家族二十万人」と歌われる大所帯。同姓同名の人がいてもおかしくないのだ。
そもそもこの木杯もどんな経緯で授与されたのか現時点では不明だ。(あいにく勲章や表彰に関しての知識は皆無である)
・・・でも、他に探すあて無いもんなあ。
頼れるのはこの「1956年5月24日に伊達哲次という人が何らかの理由で木杯を授与された」という情報だけ。
半ば藁にすがるように、この情報をもとに1956年の新聞記事を漁ってみた結果……。
―――それは見つかった。
決 着
1956年5月24日崖崩れ事故発生、
場所は小鳥原小学校東約100m(冒頭述べた石碑の位置とほぼ同じ地点)、
鉄道通信工手伊達哲次氏(41)が転落し死亡。
---もはや答えと言っていいだろう。
この石碑の正体、それは
1956年に起きた崖崩れ事故で殉職した
国鉄通信工手伊達哲次氏を悼み建てられた殉職供養碑
である。(なお木杯の下賜は同年6月18日にされたと、後日の新聞に載っている)
こうしてひとつの石碑が建てられたいきさつは判明した。
もう少し解き明かしたい謎があるとすれば、この石碑はいつ建てられたのか・石碑には正確には何が刻まれているかということだろう。
国鉄職員の殉職は(100年以上の歴史の中では)よくある事だが、石碑が建てられるとなれば重大事だ。おそらく建立のときも新聞報道があっただろう。引き続き当時の新聞記事を中心に探してみたい。
石碑の内容は・・・ぶっちゃけ読むのは難しいと思う。
繰り返し言うが石碑が線路に近すぎて、いかに徐行運転してても判読は困難なのだ。それに事故後すぐ建てられたとしたらもう70年近く。風化も進んで細かい文字はかなり見にくくなっているだろう。
・・・運良く(運悪くだな?)この石碑の目前で落石や倒木があって、列車が石碑の前で急ブレーキをかけて一時停止、なんてことにでもならなきゃなあ……。
石碑が建てられたときの
新聞記事を発見!
(2024/6/22追記)
殉職事故の日付が明らかになったので、石碑が建てられたのはそれから後ということは確定した。なので1956年6月以降の新聞を漁っていれば、そのうち石碑の記事も見つかるだろうと思い、調査を進めた。
といっても、事故死とか国鉄職員の殉職なんてわりと頻繁にあるし、報道なし・載ってても小さく3行程度とかだろうなあ…と小さな記事にも目を凝らし探していたら、―――バッタリ遭遇した。
こんなにデッカイ記事に
・・・ゴメンナサイ。
まさか紙面のアタマ4分の1を使って石碑の仕様や建てられるまでのいきさつ・さらに伊達氏の人物像などを詳細に記したりとか、
石碑の写真をどデカく貼り付けてるだなんて想像もしてませんでした。
それはさておき、記事を読んでみると、ここまで述べてきた様々な謎の解がほぼ全部と言っていいほど書かれてある。
①石碑には何が刻まれているか?
「伊達哲次君殉職碑」は確定。あとは新聞記事の写真を見る限り、左下に小さく何か刻まれてる形跡あり?
裏面はおそらく何も刻まれていないだろう。
②何に関する石碑か?
この石碑の地点付近で殉職した、国鉄職員伊達哲次氏の冥福と事故再発防止を祈願し建てられた殉職記念碑
③石碑に関する出来事はいつ頃起こったか?
1956年(昭和31年)5月24日。石碑が建てられたのは一周忌間近の1957年(昭和32年)5月20日ごろ。
④石碑に訪れる人はいるのか?
立地上、鉄道職員以外の来訪は困難。また伊達氏が庄原市街在住なので、沿線の人が訪れることは皆無と思われる。
⑤伊達哲次氏はどんな人物だったか?
備後落合駅の信号通信分区に勤める通信工手。温厚な人柄で人望も厚かった。
また、尺八演奏に長けて、職場仲間にも教えるほどの腕前があった。
⑥石碑の仕様は?
高さ約1メートル、重さ50貫(約190kg)
何よりの収穫は、伊達氏の人柄を知れたことだろう。
これだけ大きく重量もある石碑を、仲間が力とお金を出し合って作ってもらえる人だったのだ。
「温厚篤実」というのも決して社交辞令ではない、本心からの評価であろう。
いやーっ、全部書かれている記事に出会えて
よかったヨカッタ!
これにて円満解決!!
・・・ただし、全ての解決は新たな謎を生む。
上の記事の最後の方にこう書かれてある。
同所は鉄道敷設当時難工事であったところで開通後もすでに2人の犠牲者を出し魔の崖(ガケ)といわれている。
そう、路線開業(1936年)から伊達氏の殉職(1956年)までの20年の間に、もう一人事故死しているのだ。そしてこちらは殉職碑なども残されず風化してしまっている。なんとかこれに関する記録も見つけ出したい。
もっとも、この20年は戦争とその後の混乱期を挟んでいる。はたして詳細が分かるかどうか…。
もっと言えば、建設時も難工事な区間だったのだ。それこそ工事中の災害事故死があってもおかしくない。
この区間の工期は1933年12月~1935年9月の2年弱。その間の事故の記録も探してみたいと思う。
そしてこれは些細なことだが、新聞記事に貼られているはずの往時の伊達氏の写真が無い。
これまた見つけるのは難しいだろうが、機会があればどんな顔だったのかぜひ肖像を拝んでみたいものである。
以上、駆け足ながら道後山〜備後落合間の線路脇に置かれた謎の石碑についての検証・考察でした。
ただ一番最初に書いた通り、これは現在も謎が多い案件となっています。
この件について、何か手がかりになりそうな情報をお持ちの方がおりましたら、ぜひメールください。
それから、これからこの区間の列車に乗られる方は、
この石碑のことを思い出し、お目にかけていただけると幸いです。
bottom of page