「ちょっと出かけてくるか。ニンジンとネギ、ダイコン、白菜とジャガイモも足らんかもしれんのう。それに牛肉とブタ…」
1メートルをこえる積雪、それにもう夕方だ。しかし木村清志さん(26)は、隣の家に行くような気軽さで、20キロほど離れた鳥取県日野郡日南町多里まで買い出しに出かける。ふもとの三坂まで自慢のスノーモービルで一気にくだり、国道183号線を自家用車で飛ばせば、往復1時間とちょっと。「業者に頼めば持ってくるが、そうすりゃ気に入らんでも買わにゃあならん。高いものにもつきます。どうしても自分で買い出しに行かんと…。なあに、少々の雪でも、雪上車があるから、平気ですよ」
木村さんは、一昨年から道後山国鉄山の家の食堂部経営を、母親の春枝さんから引き継いだ。高校を卒業した木村さんは、春枝さんの説得で、大学進学を断念、いずれは母親の跡を継ぐつもりで、広島の料理屋で料理を習い、経理学校に通って簿記を習っていたが、春枝さんが軽い脳出血で倒れ、予定よりも早く山に帰った。定食のほかカレーライス・オムライス・うどんくらいしかなかった食堂の献立が、若い調理士木村さんの登場で、いっぺんにふえた。ビフテキもトンカツもできる。40年のリフト開設で、飛躍的にふえた都会からのスキーヤーも、木村さんの料理を満足してたべる。
スキーヤーの楽しみは、スキーのほかに、食べることくらいのもの。「気持ちよく食べてもらうために…」と、昨年の11月、木村さんは思い切って160万円をかけ、炊事場の改造をした。すすけた調理台は、ピカピカしたステンレスの調理台にかわった。
中古の小型トラックにキャタピラとソリをつけて雪上車にし、まだ広島県では珍しいヤマハのスノーモービルを30万円で購入したのも「客に安くて品数の多い食事を出すにはどうすればいいか」と木村さんが頭をひねった末の決断だ。リフトを使って食糧をあげるのには、ずいぶん金がかかる。大小にかかわらず1包み80円、それに上下2本のリフトなので、リフトに積むのにひとり、中継にふたり、リフト終点から山の家までの運搬にふたりと、計5人の人件費も大きい。雪上車とスノーモービルが、この悩みをいっぺんに解消し、負傷者の運搬など、木村さんの計算外の仕事にまで活躍する。
昭和13年開設の国鉄山の家には、毎年古いなじみの山男が、何人か訪れる。「木村のおばちゃんは元気かいのう」といいながらクツをぬぐ客は、きまったように「昔おばちゃんに作ってもろうたクリ飯や山鳥料理・アケビ茶の味が忘れられんのう」となつかしむ。
食堂のメニューに、ワラビ・ゼンマイ・山ゴボウ・フキ・ナメタケ…と並んだ「山菜料理の部」を見て「ほう、こりゃあいい」と相好をくずす。クリ林がなくなり、ウサギや山鳥も入手がむずかしくて、かつて春枝さんが作ったような食事は出せなくなったが、山の味覚を喜ぶ客が多いので、木村さんが遠くは長野県まで注文して集めたもの。木村さんは朝定食120円、夜定食230円のワクが、2月から150円と350円に改められるのを機会に、定食にも山菜を一品つける予定だという。
国鉄山の家1軒だった道後山スキー場も、スキーブームで旅館がつぎつぎと建ち現在5軒になった。「5軒が食糧を共同購入すれば、安くなるしロスもない。貸しスキーだって融通し合えば少なくてすむ。今説得中なんですがね」
次から次へとアイデアを実行する木村さんは、国体に6回出場した大好きなスキーもぷっつりやめて「安いのが魅力の国鉄山の家食堂に、これからどんな特色を出して客に喜んでもらおうか」と真剣に考えている。
中国新聞1970年(昭和45年)1月23日付