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山に駅が出来て15年 創生の難も楽しい昔話

  • 執筆者の写真: 小鳥 原
    小鳥 原
  • 12 時間前
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道後山をめぐって

道後山に駅がついて15年、道後山・帝釈峡が県立公園になって17年を経ているが、13,14日高松宮殿下が探勝においでになり、山のスキー場の設備・雪の質が今回のご旅行で一番よかった、また帝釈峡の世界的な雄橋なども称賛され数々の印象を残してお帰りになったが、これらの場所を世に出し完成に導くのに生命がけで努力した人々が感激のうちに当時の苦しさを昔語りにするときが来た。

昭和9年当時代議士永山忠則氏・県議野上民三郎氏・在京の宮田武義氏などは道後山・帝釈峡紹介のため独立美術創設者清水登之画伯に百数十点を数ヶ月にわたり描いてもらい、東京伊東屋で紹介展覧会を開き、はじめて道後山スキースロープの日本一・帝釈峡の天下の名峡を世に出し、一方県会で県立公園指定に尽力した。

道後山駅の建設については鉄道省では技術的に不能としていたが、11年6月から地元八鉾村前田熊司氏・織田亀太郎氏・中島九三郎氏などの熱望で当時県議野上氏は在京宮田氏・永山・肥田代議士などの協力で同年8月31日までに16回上京。道後山に駅をつけることは絶対不可能だと決定していたものを明治神宮で大祈願をしてオミキをもって本省に乗り込み、すかしたり、おどしたり、頼んだりして井上会計検査院第三部長・鉄道参与官星島次郎氏・計画課長堀越清夫氏・鉄道大臣内田信也氏などを説得して道後山駅建設を確定。備後道後となっていたものを再び2度まで上京、日本に稀な山と名のつく道後山駅に変更した。

野上氏はこの運動による過労のため倒れ、11月24日支線では始めてのモルタル建築の駅が完成した時、病体を自動車で落成式場に運び窓から祝辞を読みあげ岡山医大に入院再起が案じられた程であった。その後駅の利用者が少ないため野上氏は広島に出るのに東城から道後山まで切符を買い、道後山から広島までを買うという工合にし、初代角駅長(物故)も道後山から出るときは切符を買って汽車に乗るほどの苦労をつみ。

また山の家建設のためには野上氏は登山百数十回、角駅長は500余回と重ねて昭和14年計画課長から広島鉄道局長に転勤していた堀越氏の手で現在の山の家本館が完成されたものである。去る13日の高松宮殿下のスキー行には宮田氏も帰郷、野上氏とともに三井野原まで感激のうちに殿下をお迎えし、山の家で尽きぬ思い出に夜を明した。

中国新聞1951年(昭和26年)2月20日付

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