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-帝国製鉄興亡史-



備後八幡駅のホームから川の方を眺めると、1本の廃橋が架かっているのが見える。
この辺りでは珍しいトラス橋。それは東城地域最後の製鉄の数少ない名残である。
大いなる熱意が生み出した東城最後の製鉄工場「帝国製鉄」の歴史を追っていこう。
1.残りカスが繋ぐ命脈
2.国次郎の鉄
3.帝国製鉄設立!
4.福太郎の急拡大期
5.帝国製鉄と鉄道
6.誰が為に鉄は成る
7.残りの20年
8.それはまるで鉄滓の如く
1.残りカスが繋ぐ命脈
古きを捨て新しきが重んじられた明治時代、中国山地の一大産業である「たたら製鉄」は危機に瀕していた。
安い外国産鋼材の輸入や洋式製鉄の普及など色々な理由が重なり、いかに質のいい鉄を作れるとしても、コストや生産量で劣る旧来の製鉄法では太刀打ちできなかったのである。かくして中国山地の村々に点在していた製鉄場は、大小問わずたちまち廃業に追いやられていった。
無論たたら製鉄の側も、座して死を待っていたわけではない。従来より大量に、より効率的に鉄を作る努力はされていた。
特に画期的なのは、小花冬吉が考案し、黒田正暉が実用化した鉄滓吹き(てっさいぶき)製鉄法である。つまりたたら製鉄の中で生まれる、鉄と不純物の混ざった残りカス「鉄滓(かなくそ)」を木炭と一緒に燃焼させ溶かし、鉄を取り出す製鉄法だ。これは当時産業廃棄物として大量に放置されていた鉄滓の再利用にもなり、しかもわざわざ土を掘って鉄穴流しで砂鉄を採る必要もないので、労働面でも効率的な製鉄法であった。そのうえ品質は旧来の製法のものと変わらないのだから、いいことずくめである。
だが新技術というものは、それを使う者が現れなければ日の目を浴びることはない。事実小花や黒田が属していた官営広島鉄山は、この製法が実用化される前に閉鎖されてしまう。
では、この新しい製鉄法は生かされなかったのか?
…否、民間の中にこの技術の可能性を見出す者が現れた。
男の名は野島国次郎(のじまくにじろう)。人は彼を怪偉と呼んだ。

野島国次郎氏近影
2.国次郎の鉄
野島国次郎は1868年7月19日、比婆郡東城町野島庸三の次男として生まれた。成人すると分家となるが、野島本家は父の代から傾きつつあり、これを立て直したいと
志したのが、実業家としての始まりであった。
もともと野島家は山林地主で山や林業に強い。国次郎もまずはこの分野での再起をはかり、近隣の山林をひたすら買いあさった。それも交通不便な奥地の場所を選び自前で道を通すという手法で、少しでも安く大量に山林を手に入れたのである。大正期の調査ではその所有面積3,317町歩(約3,300ヘクタール)にもなり、これは2位に倍以上の差をつけて広島県ではぶっちぎりトップであった。この山林が生み出す富と薪炭を使って、国次郎は新事業に乗り出す。それが製鉄であった。
時に1895年(明治28年)、おりしも黒田が鉄滓吹き製鉄法の実用化に目途をつけた頃であった。国次郎は黒田より技術指導と支援を受けて、ついに比婆郡美古登村大屋(現庄原市西城町)に桂谷製銑工場を開設する。一日の生産量は2トン程度とまだまだ小規模であったが、まずは第一歩を踏み出してみせた。
国次郎はこの一か所にとどまらず、1901年(明治34年)には山県郡山廻村大暮(現山県郡北広島町)に大暮工場を開業。ここでは1日13トンの生産が可能となり、着実に製鉄の質も量も上がりつつあった。やがて国次郎の生み出す鉄は大暮木炭銑鉄と名付けられ、これが後々まで続くブランド名ともなった。1914年(大正3年)にはこの大暮工場を主体とした中国製鉄株式会社を設立し本格的な経営に乗り出す。折しも第一次世界大戦で鉄の需要が高騰していたころ、それに合わせて国次郎の事業も急拡大していく。1917年(大正6年)鳥取県に下西工場、島根県に都賀工場を開き、さらに中国製鉄とは別に山陽製鉄株式会社を起業(大手商社鈴木商店との合弁)し、比婆郡上高野山村工場を開業。翌1918年(大正7年)には比婆郡田森村に東城製鉄株式会社を設立し、同村に竹森工場を作り木炭製鉄を開始した。この後も国次郎の勢いは止まることなく、兵庫県千種村や島根県浜田町で工場を稼働、山県郡に太田川製鉄を開業するなど、各地で木炭製鉄の火を起こしていった。

大正9年ごろの比婆郡の木炭製鉄主要工場一覧
野島の所有は上の2社6ヶ所
この頃の木炭製鉄の工程はこうだ。まず鉄を生む溶鉱炉は、耐火レンガを直径2~3mの徳利状に積み上げており、その高さは15mにもなる。工員は火を起こした溶鉱炉の頂上から、鉄滓と木炭と石灰を交互に入れていき、燃焼を始める。燃焼のキモとなる送風は、水車を動力としていて、それを動かす水は長さ2km・高さ75mの水路から激しい勢いで流れ、その力を受けた送風機は休むことなく風を送り新鮮な空気を供給し続ける。こうして1300℃という灼熱に達した炉内から、数時間おきにドロドロの溶銑を取り出しては、型に流し込み銑鉄棒を作る。この銑鉄は1本あたり長さ70cm、厚さ10cmの棒で、重たいものでは100kg近くにもなった。東城製鉄ではこの製法で1日当たり10~20トンの鉄を2年間休むことなく作り続けた。

木炭製鉄の操業工程略図(東城小学校創立百年誌「五品嶽」より引用)
だが世界大戦が終わると、銑鉄の需要はあっという間に急落。他の戦争成金と同様に野島も一気に逆風に曝される。各地に立てた工場は5年以内に全て閉鎖され、会社群も1925年(大正14年)までには全て倒産してしまった。普通ならここでジ・エンドだろうが、国次郎はまだへこたれていなかった。20年弱という時間は、彼を木炭製鉄に惚れこませるには充分だったのだろう。時代が大正から昭和に移り変わると、彼は再び製鉄の表舞台に上がり込む。

正真正銘東城町の製鉄場「備後製鉄」
1918年8月、東城製鉄の元従業員をはじめとした7名によって東城町川西に備後製鉄株式会社が設立された。どうも東城製鉄の成功を見た町の有力者が、その流れに乗っかろうと同社の技術員を引き抜いたらしい。製法は東城製鉄と同じ鉄滓+木炭であるが、送風機の動力に電気を使うなど生産量アップの工夫がこらされていたようである。
1921年(大正10年)より操業を開始したが、品質は東城製鉄のものより劣り「東城製鉄鉄を吹く、備後製鉄泡を吹く」と町の者から笑いものにされたそうだ。結局戦後不況と経営の未熟がたたり、備後製鉄はその後すぐ倒産したという。
備後製鉄の大煙突が描かれた絵(五品嶽より引用)
煙突は昭和初期に爆破解体されたという
帝国製鉄株式会社設立の報(官報1931年12月7日号掲載)
鶴亀山聖神社(東城町川東)に残る
国次郎が寄進した石柱
3.帝国製鉄設立!
さて、確かに鉄の需要は急減したが、まったくゼロになったわけではない。国次郎の製鉄場はバタバタ潰れていったが、この木炭製鉄がなくなっては困るという層は存在したのだ。皮肉にもそれは、たたら製鉄を駆逐した八幡製鉄所をはじめとした洋式の製鉄所であった。
木炭製鉄の長所として一番に挙げられるのが、石炭で作るものに比べ不純物が少ないということである。故に耐久性が高く折れにくいことから圧延ロールの原料にもなり、またベアリングやエンジンの鋳物など軍事産業に欠かせない部品にも使われていた。だが木炭製鉄を行っているのは、国次郎を除けばあとは東北と山陰に1か所ずつという供給の少なさ。なんとしても木炭製鉄の魁たる国次郎には早々に戻ってきてもらわねばならない。そして国次郎は、その期待に応えんとする男だった。
1927年(昭和2年)、実業家野口遵の資金協力を得て、合資会社帝国製鉄を設立。かつての東城製鉄竹森工場を改修のうえ、再び同地での製鉄を始めることとなった。なぜ他にも好立地な場所があるなかで竹森工場が選ばれたのか。単にここが一番状態がよかっただけなのか、原料の鉄滓が豊富に残っていたからなのか、あるいは故郷東城に近かったからか。いずれにせよ"帝国"の名を冠した企業を広島の山奥に興したことは、国次郎の相当なる覚悟の表れと言ってもいいだろう。
かくして同年12月26日から竹森工場を再稼働し操業を開始したが、その駆け出しは向かい風からであった。竹森工場の改修に多額の資金を費やした結果、必要不可欠な木炭が多く仕入れられなくなったようである。結果、スタートから年をまたいで1928年(昭和3年)1月4日までの10日間での生産量はわずか130トン、同年5月16日から6月12日までの28日間では346トンと、1日12~3トンが限界であった。それでも相当の努力と試行錯誤の末、1930年(昭和5年)には1日16トンの生産を達成し、経営も軌道に乗り始めた。翌1931年(昭和6年)9月12日には増資のうえ株式会社に転換、山口県の豪商林安次郎を社長に呼び寄せて帝国製鉄株式会社が発足した。そしてこれから30年以上にわたって、同社は木炭製鉄の長として発展を遂げるのである。
だが、国次郎はその頂を見ることなく、1937年12月19日に69歳で亡くなった。分家から始まり、山林王として名を上げ、山師のごとき経営で各地に製鉄の火を起こしたかと思えば、あっという間に素寒貧の丸裸、そこからまたしても立ち上がり、製鉄業の再起に挑んだ波乱の人生は幕を閉じたのだった。
国次郎では志半ばに終わった製鉄への夢。
それを受け継いだのは、彼の長男野島福太郎(のじまふくたろう)である。


4.福太郎の急拡大期
福太郎は1902年(明治35年)に生まれ、東京帝国大学(現東京大学)で経済を学んできた。また、中学校時代からサッカーに励み、広島県代表や東大サッカー部主将にも選ばれるなど、まさに文武両道の青年期を送っている。大学を出た後は建設会社に勤めていたが、帝国製鉄が株式会社に移行したときに父の誘いを受け、同社の取締役の座に就いた。ここで父国次郎から製鉄の、社長の林安次郎から経営の知識を叩き込まれた彼は、父亡き後社長に就任し、その手腕を発揮していく。
折しも日中戦争が始まり、再び戦争特需が到来していた。しかし竹森工場だけでは、到底日に日に増える軍需をまかなえない。なので帝国製鉄はここから次々と新工場建設に乗り出す。手始めにかつて国次郎が操業していた加計工場を再開。再稼働直後に火災で主要建物を失う災難にも見舞われたが、すぐ再建され従業員300名の大工場に育て上げている。続いて県境を越えて島根県三成町に進出。1937年(昭和12年)には事務所、1940年(昭和15年)には工場が開設され、こちらも従業員250名を誇る大工場となった。また、この頃には本社を大阪に移転し、今やその名は中国地方のみならず全国に名を轟かせるものへとなっていた。

野島福太郎氏近影(広島サッカー85年史より)
工場を作れば、そこで働く人も必要になる。製鉄ともなればなおさらだ。前述の通り、帝国製鉄は大阪に本社を構えていたこともあり、賃金も大阪レベルとなっていた。これがまた高かったようで、山奥の工場にも関わらず、人が多く集まったようである。1942年(昭和17年)時点では、竹森工場だけで600人以上の従業員が勤めていたそうだから驚きである。
そして足りないのは人や工場だけではなかった。原料である鉄滓もすっかり使い果たしてしまい不足し始めたのである。かつては嫌でも目についた産業廃棄物扱いだったのに、今度は無くなりそうでどうしようと言うのだから、つくづく勝手なものである。それはさておき、帝国製鉄は鉄滓の代替原料として砂鉄や鉄鉱石を使い始めた。鉄鉱石こそ朝鮮やビルマ(ミャンマー)からの輸入であったが、砂鉄はなるべく近隣から調達しており、島根県の仁多や横田・鳥取県の弓ヶ浜産が主に使われていた。また、東城周辺からも野上民三郎を通していくらか供給を受けていたようである。
このように福太郎の社長就任以降、帝国製鉄は急拡大を遂げ、それに違わぬ質と量の鉄を生み出していた。1941年(昭和16年)度には年間1万6423トンの生産を達成し、これは全国の木炭製鉄生産量の2/3に匹敵する数字だった。まさしく木炭製鉄の雄として君臨していたのである。


工場内のトロッコ留置線
周り山積みされているのは作られた銑鉄
(写真アルバム三次・庄原の昭和より引用)

5.帝国製鉄と鉄道
さて、ここまで長々と帝国製鉄という会社の歴史を述べてきたわけだが、皆さんの興味はおそらく別の所にあるだろう。すなわちここと三神線はどのような関わりを持っていたかということである。これについては貨物と旅客、ふたつの輸送の両面において重要な役割を果たしている。
貨物輸送については、言うまでもなく原料と製品の輸送である。三神線が開通し備後八幡駅が置かれると、さっそく川向こうの竹森工場へと伸びる引込線が作られた。そして製鉄に欠かせない原材料たる鉄滓や砂鉄・鉄鉱石は、芸備線の貨物列車で備後八幡駅まで運ばれ、駅からはこの引込線のトロッコに載せ替えられた。工場が置かれた田森村に提出された書類によると、軌道の延長は324m、築堤ではなく桟道を架け、工場の直前で50mの橋を渡るものとなっていた(なお、この時点ではトラス鉄橋ではなく木製の吊り橋だったようである)。このトロッコは機関車を用いず、水車動力のウインチで巻き上げて動かしていた。トロッコによる運搬作業には、30人弱の人出が携わっていたという。一方、もう一つの主要原料である木炭についてはトラック輸送が主だったようだ。おそらく産地と線路が大きく離れているのが一因とみられる。こうして運ばれた原料を用いて作られた鉄は、またトロッコで備後八幡駅まで運ばれ、そこから貨物列車で各地へ届けられた。なお、帝国製鉄は複数の工場を持っていたが、駅から専用線を通したのは竹森工場だけである。(三成にも通す予定だったが、橋を架けたところで中止となった)
ではもうひとつ、旅客輸送の面ではどうだろうか。工場従業員の通勤利用もあるだろうが、工場内には社宅も多く設けられていたので、そこまで大した需要にはならないだろう。実はそれよりもっと重大な使命が課せられていたのだ。何か?
ヒントは…三成から竹森に"ある物"を届けること

備後八幡駅より工場方面に伸びるトロッコ
(比婆郡今昔写真帖より引用。遠藤泰允氏所有)
東城に集った、帝国製鉄所有のトラック
(昭和24年撮影、目で見る三次・庄原の100年より引用)

それは売上金の輸送である。
取引の決済をはじめとした金銭管理は、主に竹森工場で行われており、三成工場で得た売上金についても竹森工場に運ぶこととなっていた。その際劣悪な道路(この頃は当然おろちループのような高規格ではなかった!)を通るよりかは、工場近くに駅がある鉄道に乗って移動する方が安全なのは確かである。とはいえ、ただでさえ鉄は単価が高いし、さらに三成工場では特殊鋼を製造していたため、その売上金はますます大きく膨れ上がる。しかも出雲三成から備後八幡へとなれば直通列車も無く、どうしても備後落合駅での乗り換えが必要になり、盗難や紛失のリスクも高まる。この遣いを頼まれた者は、懐に大金を抱えて列車に揺られるものだから、さぞ気が気でなかったことだろう。
6.誰が為に鉄は成る
前述の通り帝国製鉄は、福太郎の社長就任以後急成長を遂げていた。それは戦争という追い風があったのも確かだが、福太郎が好機を逃さない経営の才に恵まれていたことも確かだろう。そして福太郎も父と同様、いやもしかしたらそれ以上に木炭製鉄に執心している面があった。
1938年(昭和13年)4月27日、島根県鳥上村(現奥出雲町)で叢雲鑪(むらくもたたら)の操業を始める。ずいぶん厳つい名前だなあと思うかもしれないが、これは工場周辺で出土された叢雲剣(むらくものつるぎ)に由来している。なぜこんな名前を付けたのか?実はここで作られたのはただの鉄ではなく、日本刀の原材料となる玉鋼(たまはがね)なのだ。この開業は軍刀向けというのもあるだろうが、それ以上に技術の保全と伝承という意味合いが強かった。明治以降、たたら製鉄と同様日本刀も捨て去られていき、その技術も失われようとしていた。帝国製鉄はこの窮地を救うべく、まったくの採算度外視で玉鋼を生むたたら場を蘇らせたのだ。これは福太郎が日本刀の収集家だったことと、そこに木炭製鉄への情熱が組合わさった結果なのだろう。この叢雲鑪では村下(たたら製鉄の工員)が30人従事し、また伝統製法を習得していた。
その一方で、新規開拓も欠かさなかった。太平洋戦争序盤の快進撃で、マレー半島を支配下に収めると、現地で採れる鉄鉱石を生かした自給自足の製鉄が企図された。石炭も十分採れるが、あいにく軍需物資である。なれば代用品として、ジャングルの木々から作られる木炭を使おうとなるのは自然な流れであった。それはすなわち日本でもほとんど見られない木炭製鉄を、遠くマレーで行うということだ。となればその道のプロたる帝国製鉄に声がかかるのは必然である。1942年(昭和17年)6月、日本製鉄と契約を交わし、さっそく7月には現地へ調査団を送り出し、タイピン市(現マレーシアペラ州)への工場建設に乗り出している。
もっともこの製鉄工場は、技術面では失敗と言わざるを得ない結果だったようだ。詳しくは不明だが、どうも熱帯林の樹木から作る木炭では良質な鉄を作れなかったらしい。結局終戦と同時に工場は放棄されるが、経験と意地は捨てられない。戦後独立したマレー連邦からの求めに応じ、再度現地での木炭製鉄に挑戦する。それが実を結ぶのは20年以上の歳月を懸けなければならなかった。
この太平洋戦争期が、帝国製鉄にとっての絶頂期であった。1942年度、国内では計11社が2万2,064トンの木炭製鉄を生産していたが、そのうち2/3が帝国製鉄製である。当然時勢柄軍需が多数を占めており、竹森・加計・三成の3工場は軍需省の監督工場に指定されていた。グループ全体の従業員は総勢1,400人近くとなり、まさしくマンモス企業となっていたのである。

