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庄原市道大峠線

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0.短絡道路ヒストリー

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芸備線再構築協議会の平日の増便バスの内容が発表されたとき、「なんだかなあ」と肩を透かした記憶がある。というのも備後八幡駅に立ち寄らず、国道上の菅(すげ)に代替バス停を置いているのだ。もちろん「増便バスは鉄道と並行しなければならない」というルールは無いのだが、それにしたって離れすぎている感がある。集落も駅のある中菅とバス停のある下菅・三草で違うし、当然内名駅方面にも行けない。備北交通の日野原線と同じ経路を辿るとか、方法はあったと思うのだが、なぜ鉄道との比較データを取りづらくするような経路にしたのか、正直疑問の余地が残る(休日のバスが徳雲寺観光向けに停まるのかと思ったがそれも無かった)。

備後八幡駅と菅バス停の位置関係

より詳しく説明すると、備後八幡駅菅バス停の間には山がそびえており、それを迂回するように県道237号線と国道314号線を辿ることになる。徒歩だと所要時間は40分弱。しかも駅からスタートの場合上り坂なので余計遠くに感じる。これは駅以外(梨郷団地や旧菅竹小学校)をスタートにした場合でも同様であり、これではとても駅の代わりのバス停としての使命を果たしているとは言い難い。
せめてこの区間をショートカットするような道でもあれば違うんだけどなあ~と思い、地図を見てみると…。

あったよ。

駅前の坂を上った辺りから右に分かれ、等高線に沿うようにグネグネ捻りながら国道へと至るほっそい線が。
…いや、細い実線てことは「軽車道(つまり一応は自動車が通れる道)」なんだろうけどさあ。でも何度も経験して頭に叩き込まれてるんだよね。「こと山において軽車道の表記は信用するな」って。
​そしてなるべく勾配を避けた線形であること、二つの主要道路を短絡しているということから、もしかしてけっこう古い道なのでは?と思い昔の地形図を見たところ、案の定それらしい道が描かれていた。かなり簡略な直線であるが、実際の線形は今と変わらないだろう。

画像は矢印ボタンを押すと変わります!(計3枚)

…いや実は踏査後の文献調査で、この道がさらに昔からあるという事実にたどり着いた。
​どのくらい昔かって言うと…。

江戸時代には
すでに通っていた!


1825年成立の広島藩の地誌「芸藩通志」の菅村の絵図に、大峠という名前とともに立派な赤線で描かれているのだ。
​また、この地に置かれていた比婆郡八幡村の地理風俗をまとめた「八幡村自治五十年志」にも、道路について一節を割き書かれており、それによれば、

八幡村自治五十年志(内藤正)より引用(仮名遣いはひらがなに修正)

大道の重要なるもの左の如し
第一 東城より西城に通ずるもの…(以下略)
第二 東城より出雲伯耆に通ずるもの…(以下略)
第三 菅村鳥越より分れて大峠を越し中菅に出で上菅を経て曽坊橋を渡り竹森村に入るもの
第四 森村小出居より分れて(中略)加谷村に入るもの
第五 森村小出居より分れて(中略)山中村に入るもの
第六 森村両角より分れて(中略)西城往還に合するもの
第七 田黒村内名田より分れて(中略)上菅村に入るもの
​以上七線は牛馬の行通すべき大道にして幅員狭しといえども自由に行通せしものなり…(以下略)

画像は矢印ボタンを押すと変わります!(計2枚)

つまりこの道はかつて、東城~西城の往還から分岐し内名や内堀へと至る、
八幡村の主要街道のひとつだったのだ!

経路から言えば、三神線のご先祖様と言っても過言ではないだろう。
​何より大峠というのどかな村に似つかわしくないダイナミックな峠の名が、妙にそそられる。行政もそう思ったのか、庄原市道となった現在この道は「大峠線」という名前になっているようだ。

…ただ忘れてはならないのが、この道は今は軽車道として頼りない細線で描かれていることだ。
他の道が自動車も難なく通れるよう改良され、しっかり自動車道として描かれているのと比べると、ずいぶんぞんざいな扱いを受けているようにも思える。
じゃあ実際この道は今どうなってるの!?
​…長い序章はここまで。いいかげん実地調査へ話を進めるとしよう。

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