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なぜ三角形の底辺を
通らなかったのか
東城~庄原間ルートに関する一考察

はじめに
このページでは、未解決の問題を取り上げています
本件について何かご存じのことがありましたら、
情報提供の程よろしくお願いいたします。

鉄道路線の歴史を調べる、というのはなかなかに骨の折れる仕事である。そりゃあ今時ネットや書籍を読み漁れば基本的な知識は得られるだろうが、たいてい基本どまり。その先を知りたければ、深い史料の海に飛びこんでいかなければならない。これは鉄道に限らず歴史調査をするうえでは、避けられない道だ。
私が三神線の歴史を調べる際もそんな壁との戦いの連続である。その中でも特に高く分厚い壁だと認識しているのは↓






















東城~庄原の線路がなぜこの↑ルートになったのか、という疑問の解決だ。
県境を越え東城まで来た線路は進路を北に変え、八幡・小奴可を抜けて八鉾で山をぐるっと迂回、そこから南下して西城を経由しつつ庄原に到達する。地図に起こすと山の形をした線形である。
だがこのルートは、東城と庄原という2拠点間を結ぶうえで、ずいぶん遠回りとなってしまう。営業キロに換算すると49.7km。いっぽう道路の方はというと、中国自動車道や県道23号線が南の中山峠を越えるルートを採っており、距離は35km程度に抑えられている。この15kmという距離の差は所要時間にも表れており、鉄道は現在は100分、徐行や備後落合での乗り換えが無いかつての急行列車でも60~80分はかかるところを、現在の高速バスは40分、未整備の県道経由だった昔の路線バスでも100分弱と、鉄道と同等もしくはそれ以上に短い時間で結んでいる。鉄道が三角形の頂点を全て結ぶ線形なのに対し、道路は一直線の底辺と例えればいいだろうか。


なぜ鉄道も底辺を通らなかったのだろう?




















上述の通り、鉄道のルート(落合経由)と道路のルート(中山峠経由)のルートでは、15km程度の差がある。時速50kmの列車だと10分、60キロだと15分は所要時間を縮められるだろう。しかも単純に距離が短くなるだけでなく、さまざまなメリットが付いてくるのだ。

天然資源が豊富
沿線は山間部とあって木材に恵まれている。また東城側はカルスト地形であり石灰類の需要も期待できる。
観光資源もまた多い
言わずもがな帝釈峡のことである。仮に県道に沿うルートの場合、奇勝雄橋の近くを通ることになり、そこへ向かう観光客の輸送を担うことになるだろう。(あとはカルト的に葦嶽山も)
大きな川が無い
地味に重要なポイント。
つまり長い鉄橋を架ける必要が無い・水害で橋が流されて不通になるリスクが小さいということである。インフラの建設・維持の観点からだとこれはなかなか大きい。

とまあ中山峠ルートは、旅客・貨物・インフラ維持あらゆる面から見て、それなりに魅力的なルートなのだ。
いっぽうデメリットを挙げるとすれば、


地形が険しい
県道は急坂やヘアピンカーブを多用し山越えをしており、鉄道にとっても難所となり得るだろう。
沿線人口が少ない
中山峠ルートの場合、沿線の村は帝釈村・本村の2村で合計人口は5,000人弱(1912年時点)、一方落合経由だと八幡・田森・小奴可・八鉾・美古登の5村だけでも計14,000人と3倍近い開きがあり、さらに西城町も通るのでその差はますます大きくなる。

この2点が大きいだろうか。ただこのデメリットも考えものである。峠越えの道が急だと言うなら、トンネルを掘って解決だってできただろう。現に周辺の路線を見ても、木次線の下久野トンネル(2,241m)や因美線の物見トンネル(3,077m)など、全長1km越えの長いトンネルは珍しくない。中山峠だってそうすればいいだけの話だ(そもそも芸備線全体でも長いトンネルが少ないのだが)。沿線人口にしたって、個々の村の人口は3~4,000人程度だし、西城は木次線が通ることが内定している以上、無理に八幡や小奴可を通す必要も無い。つまりこれらのデメリットも中山峠ルートにならなかった決定打とは言い切れない。
じゃあなんで通らなかったの!?
…もう少し歴史を紐解いていくとしよう。


そもそも始めから史実のルートで行くつもりだったのか?
三神線の建設決定から開通までの大雑把な時系列は、次のようになる。
1918年2月:第40回帝国議会で新見~三次(のち庄原)間鉄道建設に関する建議案提出
1920年:新見~庄原間鉄道(三神線)敷設が決定
1923年:三神線計画区間の測量開始
1929年:最初の建設工事起工
1930年11月:東城まで開通
1933年:東城~庄原間の建設工事が始まる
1936年10月:三神線全通!

さあどの段階で決まったのだろう?まず初めの建議案提出の段階では具体的な経由地は書かれていない。
…だが実はヒントになりそうな情報が記されている。

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/txt/004001982X00619180305/182
○政府委員(中西清一君) 線路ノ總延長ガ五十六哩四十六鎖、工費總額ガ七百九十三万一千圓、其間ニ
「トンネル」ヲ要シマスコトガ二十七箇所、其總延長ガ三万九百十四尺、サウ云フ調ベニナッテ居リマス

第40回帝国議会 貴族院請願委員第四分科会第6号(大正7年3月5日)


路線長がおよそ56.5マイルメートル換算で90km強である。備中神代~三次間の営業キロが90.3kmなのでほぼ合致する。
じゃあこの時点で今のルートに決まってたのか!
…いや、そういうわけでもなさそうだ。

トンネルの数が明らかに合わない。
発言ではトンネルは27ケ所掘るとあるのに対し、実際の備中神代~三次間のトンネルは14ケ所と約半分。備中神代~新見間を含めてもまだまだ足りないだろう。
ということはこのとき考えられていたルートは、距離だけ似ている全く別物だった可能性が高い。
それはいったいどのようなものなのだろうか?

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/txt/004011803X00219180307/8
○政府委員(中西清一君) 調査致シテ御坐イマス、明治四十三四年頃カラ、大正元年デスカ、二年頃カニ亙リマシテ、全國ニ亙リマシテイツリ出來ル時機ガ來タラ鐵道ヲ掛ケル必要ガアリハセヌカト云フ地方ヲ、ズット調査シタ事ガ御坐イマス、
其時ニ卽チ此線路ニ付テハ明治四十四年六月ニ測量ニ著手ヲ致シマシテ、同年ノ七月ニ終ッテ居ルノデアリマスガ、
時機ハイツ到達スルカ明言ハ出來マセヌガ、所謂日本全國ノ鐵道網トシテハ、理想的ニ鐵道ヲ敷設スル場合ニハ、必要ナル線ノ一ツデアラウト云フヤウナ見込ヲ以チマシテ調査シタ事ガ御坐イマス、隨テ線路ノ狀態ナドモ概略ハ分ッテ居リマス、豫算ノ高トカ、隧道ヲドノ位要スルトカ、橋梁ガ約ドノ位ト云フ、極ク概略ノ調丈ハ出來テ居リマス

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/txt/004011803X00219180307/17
○湯淺凡平君 先刻山道君ヨリ鐵道院ニ於テ、此線路ノ沿線ノ經濟狀態ヲ御調査ニナリマシタ材料ノ御要求ガアリマシタガ、私ハ更ニ此線路ヲ御實測ニナリマシタ際ノ、其實測圖竝ニ隧道トカ、橋梁トカ云フモノノ像定ニナッタ書類ガ御坐イマスレバ、ソレヲ頂戴致シタイト思ヒマス

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/txt/004011803X00219180307/18
○政府委員(中西清一君) 概略ノ調ベハ-圖ハ持ッテ居リマセヌガ、大體此處デ分ッテ居リマス、
建設費ノ額ハ此處ニ御記入ニナッテ居ルモノト、一寸一箇所違ッテ居ルヤウデアリマス、七百九十三万一千〇八十八圓トナッテ居リマスガ、此方ノ方デハ七百九十三万〇百八十八圓トナッテ居リマシテ、「零」ノ往キ所ガ違ッテ居リマス、多分是ハ寫シ違ヒカト思ヒマス、ソレカラ一哩十四万圓トナッテ居リマシテ、
隧道ノ總延長ハ三万九百十四尺、橋ノ數ガ五十八箇所、其總延長ガ七千三百九十六尺ト云フ計算デアリマス、就中一番長イ隧道ハ東城ト西城ノ間ノ峠ヲ通ス所デ、一哩六十六鎖-哩三分ノ二以上ノ隧道ガアルト云フ調ニナッテ居リマシテ、工事トシテハ庄原カラ三次迄ノ間ハ差シタル工事ハアリマセヌガ、庄原以東新見迄ノ間ハ、可ナリ隧道ヤ何カガ多クテ六ケ敷イ線路ノ部類ニ入ルコトニナッテ居リマス
第40回帝国議会 新見三次間鉄道建設に関する建議案委員会第2号(大正7年3月7日)






















東城から北上し、八幡村から現在の県道57号線に沿うように進み、途中の峠(権現もしくは鹿深峠)に1.7マイル(約2,500m)のトンネルを穿ち、西城に到達する。
これが当初考えられていたルートではないかと思われる。
なるほど、八幡村内は山がちな地形なので、史実よりトンネルが多くなるのも頷ける。ただ、峠の前後の区間は東城側はともかく西城側が距離的に勾配が険しくならないかという懸念はある。また、トンネルが長く・多くなるので、軽便鉄道規格とはいえ費用もそれなりに嵩むと述べられている。
いずれにせよ、当初は史実と異なるルートで考えられていたことは間違いないだろう。
ところが1年経つと、また様子が変わってくる。

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/txt/004111802X00219190308/2
○湯淺凡平君…(前略)
唯、玆ニ政府ニ御注意願ヲテ置キマスル事ハ、豫テ政府ニ於テ調査線トシテ御實測ニナリマシタ所ノ線路圖ヲ拜見致シマスルト、
東城ヨリ庄原ニ至リマス所ノ間ハ、東城ヨリ小奴可、西城ヲ、經テ庄原ニ至ルコトニナッテ居リマス
此線路ハ頗ル困難ナ線路デアリマシテ、中ニハ隨分長イ隧道抔ヲ設ケナケレバナラヌヤウナ、御設計ノヤウニ承ッテ居リマスガ、

若シ之ヲ東城ヨリ線路ヲ變更致シマシテ、東城ヨリ帝釋ヲ經テ庄原ニ出ルト云フ道ヲ御採リ下スッタナラバ、是ハ非常ニ良イ線路デアリマシテ、今日此間ハ道路ガ開ケテ居リマスガ、距離ノ上ニ於テ近イノミナラズ、左程大キナ山坂ガ無イノデス、又河川モ無イノデスカラ、殆ド橋梁ト名クベキモノ、又ハ隧道ト稱スベキモノハ無ク、隨テ輙スク線路ガ出來ルダラウト、私共實地歩イテ居リマス者ガ確信シテ居ル所デアリマス、願クハ今一度之ヲ比較線トシテ、東城ヨリ庄原マデノ線路ヲ實測シテ戴キタイ
此間ニハ中國ニ於テ有名ナ帝釋天ノ殿堂ガアリマシテ、交道不便ノ時ニ於キマシテモ、中國、山陰、山陽、四國邊カラ、之ニ參詣スル者ガ非常ニ多數アリマス、此處ヲ直接ニ通過スルコトニナリマシタナラバ、鐵道トシテノ價値モ益々增加スルコトヽ思ヒマス、

斯ク致シマスレバ、此地方ハ之ガ爲メニ恩惠ヲ受ケルコト甚ダ尠カラヌノデアリマス、(後略)

https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/txt/004111802X00219190308/4
○政府委員(工學博士石丸重美君) 
唯今ノ御質問ニ御答致シマス、此新見ヨリ庄原ニ至リマスル案ニ付キマシテハ、
政府ニ於キマシテモ既ニ一應ノ調ハ出來テ居リマスガ、唯今湯淺サンカラ説明ガアリマシタ東城ヨリ庄原ニ至ルノニ大變近クテ、
サウシテ良イ線ガアルト云フコトハ、是ハ初メテ承リマシタノデゴザイマスガ、
若シ斯樣ナ線路ガゴザイマスレバ、是非政府ニ於キマシテモ調ベテ見タイト考へテ居リマス、(後略)
第41回帝国議会 新見庄原間軽便鉄道建設に関する建議案委員会第2号(大正8年3月8日)


急に小奴可を通る話が出てきた。
東城~峠のトンネル~西城だったのが、東城~小奴可~西城と、北寄りのルートに修正されている。
「ということはここで史実のルートに決まったのか!」と思いきや、これまたそうでは無いらしい。
















各駅停車全国歴史散歩〈35〉広島県(河出書房新社刊)によると、
東城から北上し、多飯ヶ辻山を回り込むように粟田・小串・千鳥・内堀を経て、小奴可に至るのが当初案だったそうだ。
この話は書籍だけでなく、私も東城の人から聞いたことがあり、間違いないだろう。
ただ、実際このルートに沿う道路を通ってみれば分かると思うが、この区間もまた頭地川の渓谷にへばりつくように断崖が続いている。それに粟田・小串・千鳥・内堀・小奴可と村境のたびにそこそこ勾配のある峠がそびえているので、史実よりも難路となっていたのは想像がつく。
結局このルートは「汽車の煙で田畑がダメになる」と住民の反対を受け史実のルートに変えられたという、典型的な鉄道忌避伝説として伝えられているが、仮に反対の声が無かったとしても実現することは無かったかもしれない。

そしてもう一つ大事な話として、
ここではじめて帝釈経由のルートが提示された

 

その理由として、記事冒頭で述べたようなメリットが挙げられている。この提案をした湯浅議員は、備北地域を出身・選挙地盤としており、沿線の土地鑑は会議の参加者の中では一番あると言っていいだろう(それにしたって大きな山坂が無いはさすがにダウトだろ)。
そして湯浅議員は「比較線として実測・検討していただきたい」と述べ、それに対する政府の調査チームの博士の回答は「ぜひ政府においても調べてみたいと考えております」という前向き?なものであった。もっともこの調査が実際に行われたかは不明である。

ということで、ルート決定までの経緯を調べようと古い会議録を漁ってみたら、決め手どころか新しいルートが次々と掘り返される結果となってしまった。
そしてなぜ史実のルートになったのかは、結局分からずじまいである。
かといって、他にルート決定までの経緯を記した資料は、今のところ見つかっていない…。

残念ながら今時点で確かな結論は出せないだろう。
なのでここからは、様々な推測を立ててみることにする。

岳東狂士の提案

広島と山陰を結ぶ両山鉄道構想が進んでいた1895年(明治28年)2月22日、岳東狂士なる輩の「線路変更の意見」が芸備日日新聞の紙面を飾った。曰く、庄原~西城~坂根~横田と計画されている両山鉄道のルートを右のようにすれば、旅客・貨物ともに需要が増し、さらにトンネルも少ないので工費も安く済み、浮いた資金で吹屋銅山方面への支線も作れるという。このルートの場合、中山峠のほか小鳥原~坂根のアマベ山越えと、二つの難所がそびえることになるが、トンネルなしでどのように攻略するのかは言及されていない。

いろんな仮説

1.地形説
これはとても分かりやすい。中山峠ルートでは急坂が多くなるので、少しでも勾配の緩やかな史実ルートにしたという考え方だ。
しかしこれが結論と片付けるのは安易だ。先述の通りトンネルを掘るなり、迂回するなりして勾配を和らげれる方法はいくらでもある。
それにこの説では、当初八幡の山越えとか粟田・千鳥の渓谷ルートを採ろうとしていたこととの整合性がつかない。


2.地質説
あいにく地質には詳しくないので確かなことは言えないが、東城~帝釈のあたりは石灰岩が多くを占めるので、それが悪さをしているのかもしれない。
ただ、伯備線の新見周辺など似たような条件の場所にも通っているので、これも決め手とは言い難いだろう。

どうも地理的な理由だけでは結論とするには弱い。
そこでもう少し別の視点からも考えてみるとしよう。


3.政治工作説
実はこの頃、東城町が岡山県への編入運動を起こしており、周辺の村(おおよそ現在の東城町域に該当)も巻き込むつもりだった。
これはその巻き込まれる村々の反対の声もあり頓挫したが、その反対運動の見返りとして小奴可や八幡・田森といった村への鉄道開通を広島県や国が約束したのではないかという推測だ。
もっともこれでは、同じく反対してたであろう帝釈村が何も得られないし、広島県出身の湯浅が中山峠ルートを提案してきたことの説明がつかない。


4.鉱石採掘説
個人的にこれを一番推している。
この頃小奴可村北部、鳥取との県境周辺で、クロム鉱山を新たに開く動きがあった。その採掘したクロム鉱石の輸送のために、鉱山に近い小奴可へ線路を誘致したという説だ。
これは、政府のルート案でしきりに小奴可を経由させようとしていたことへの説得力が増してくる。
ただ、この時点ではあくまで"採掘計画の申請"段階であり、事業化していないのは留意すべきである。
​なお、このクロム鉱山は規模は小さいものの、1950年代まで採掘が行われていたことは確認できる。

1918年提出のクロム鉄鉱試掘鉱区図(広島県立文書館所蔵)
​小奴可村北東の持丸地区(鳥取県境三国峠近く)で採掘する計画だったことが分かる

なぜ、三角形の底辺を通らなかったのか。なぜ大きく迂回する道を選んだのか。
​その答えを知るには、まだまだ研究が足りない。これからも引き続き史料を漁ってみるとしよう。

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