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祝三神線全通
鶴首待望の三神線きょう晴れの全通式
平和境を走る文化の使者!沿線町村に歓喜漲る
多年朔望してやまなかった備中神代-備後十日市間96.5キロの沿線鉄道も、全線の殿り小奴可-落合間11.1キロの工事竣成を告げ、今10日を卜して同線の心臓部たる広島県比婆郡庄原町庄原尋常高等小学校において華々しく全通の式典が挙行される、まことに感慨無景、転た今昔の威に堪えぬものがある、顧れば備中・備後の先覚者により鉄道敷設が提唱されてより星霜を閲すること実に30余年、幾度かの血涙に彩られた苦悩惨々たる経緯を経て、ここに測量開始以来13か年、856万円の巨費をもって積年の宿望は達せられ、ついに今日の光輝ある盛典を迎えたもので、涙なくしてはこの苦闘のあとを追憶することは出来ない、十日市-神代間に19駅ほか仮駅2つが設けられ、広島・岡山2県3郡19町村を抱擁する沿線は川に沿い、丘を越え、峡谷を縫うたいわゆる山丘地帯ながら踵を接する高山群丘は早くも紅葉の化粧を点描し、草深い田園には豊穣の秋を讃える黄金の波が脈打っており、備中阿哲峡・備後帝釈峡雲伯備三国を跨がる秀峰道後山頂は秋空をついて聳え、車窓から眺める山丘の興趣は尽きず、腕白童らの唄う牧歌にも山間の風情は原始的懐古をそそり、思郷の情威はいとどこまかい、とまれ山の幸・田園の幸に富む三神沿線は、線路とともにいよいよ拓け行く!
三神線の概況
新見-三次間鉄道は大正9年第43議会(臨時)協賛を得、軽便鉄道として予算の成立を見たるも翌10年第44議会において予算を組替え本鉄道となり大正12年4月鉄道省告示第61号をもって米子建設事務所書簡に編入せられて三新線と称した、その延長約98キロ余、大正11年5月備中神代より測量着手し昭和3年3月7日起工した、また大正13年5月備後庄原より測量着手し昭和7年3月1日起工、以来両極端方面から工を進め遂次開業すること5回、この延長57キロなり、また昭和8年6月1日芸備鉄道株式会社経営にかかる備後十日市-備後庄原間21キロ余を買収改築した、新線小奴可-備後落合間11キロ余の開通をもって両開業終端を連絡し、新見-三次間の貫通運転を開始するにいたったものである
同線路は伯備線備中神代駅を起点とし西進し神代川に沿いて上り、坂根駅・矢神駅・野馳駅を経て岡山・広島両県の分水嶺たる大竹山に隧道を貫き右転左折して東城駅に達する、同駅西南厄12キロに県立公園帝釈峡のある帝釈川の上流部約30キロの間一帯にわたり石灰石の浸食による大峡谷にて天然の奇岩・洞窟と大堰●および湖水は地方稀に見る奇観である、それより東城川の窮迫せる山麓に沿いて●り八幡村に備後八幡駅を設く、同駅から東南約300メートルに帝国製鉄株式会社の本工場がある、線路は北進して東城川断崖を這いつつ漸上して小奴可駅にいたる、さらに左転小奴可川を渡り県道に沿って本線中の最高地たる小奴可・八鉾の村界附近海抜約625メートルの丘陵を越た道後山駅(営業開始は11月21日の予定)を設置し同駅の東北方約8キロに県立道後山国定公園あり、同山は登山容易・明朗なる大景観を有し初夏のつつじと高山植物の群生せる絶好のハイキングコースとして、さらにスキー場として遠近の登山者踵を接し三坂住民会を組織して遊覧誘致につとめている、線路はさらに進み同線中最長の小坪隧道(438メートル)を貫き、小鳥原川・宮脇川の峡谷に第1小鳥原・宮脇および第2小鳥原橋梁を架橋山腹を縫うて走り、川の迫るところに土居陸橋を架して進み第3・第4小鳥原川橋梁および小持原・宮ノ谷両隧道を過ぎ備後落合駅に達する、同駅は昭和12年開通予定の木次線の分岐点でもある、線路はさらに渓谷に沿って進み、山容開けたところに備後熊野駅を設く、同駅の西北方約12キロの比婆山山麓に伊弉冉命を祠る熊野神社がある、春季祭典には四方の参拝者数千を算する、同駅は熊野神社に因んで社造としたのも面白い、附近は木炭・木材の産出多く広島・京阪・関東方面に販路進出を示しつつある、それより線路は西城川に沿って下り、備後西城駅に達し南下し比婆平野に出で高駅を設け備後庄原駅にいたる、同駅から帝釈峡へは東南方約26キロで広島方面から同峡への捷路である、備後庄原から備後十日市間は、昭和8年芸備鉄道株式会社より買収改築したものでこの間に備後三日市(簡易)七塚(簡易)山ノ内・下和知・塩町・神杉・八次の7駅を設く、塩町駅は福塩線の分岐点、また備後十日市駅は芸備鉄道との連絡駅である、同沿線は農林の物資豊富で畜牛・養蚕など非常に盛大である、同線全通に伴い列車運転の関係上新見-備中神代両駅間に布原信号場を設置してある、交通文化発達史に画期的飛躍を齎しつつ全通の暁は備後十日市-山陽線姫路間(作備線津山経由の直通)列車を運転、峩々たる中国アルプスを貫いて広島から岡山を貫通し兵庫県に出るまで文字通り中国地方の中央幹線となり、しかも海抜600余メートルの高地を縫う山岳列車としその名に恥じぬ鉄路となった、顧れば過ぐる30余年前中国山脈下の僻地から明治中期の●●たる新興の潮流に棹さして限りなく文化を思慕した先覚者の希望が一つの歴史の間に幾多当事者の惜しみなき努力苦節に培われて今や陰陽の最中央に巍然と文化の一線を描いたのである、名にしおう最高地帯を開鑿したあの難工事を思うにつけわれらはここに先覚や当事者の果しない努力を讃え、あわせて全通のよろこびに満腔の祝意を捧げる次第である
観光線路としても重大な役割を演ず
三神線の全通は陰陽連絡の親善を深めたばかりでなく、伯備線と結んで、さらに宇野線をつなぎ四国と連絡して讃州金比羅宮への参拝捷路となるほか国立公園鞆の浦および厳島との観光コースがいちぢるしく短縮することとなり、さらに伯耆大山などこれら観光コースの握手がもたらす最も顕著な恩恵を受くと見られるべきは山間僻陬の名峡県立公園帝釈峡・道後山が一躍観光界の寵児"花形"と謳われるにいたったことで、産業文化開発線路はまた観光線路として重大役割を演じて"観光日本"へ高らかに呼びかけることと祝福も一段と大きいものがある
中国新聞1936年(昭和11年)10月10日付
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