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Sanshinsen Prequel
三神線ができるまで
鉄道の敷設。
そこに至るまでは多くの人々の汗と涙があり、
それぞれの路線にそれぞれのドラマがあったことでしょう。
では三神線ではどうだったのでしょうか?
幸いにも敷設に至るまでの経緯が事細かに記録され、
今でも見ることができます。
本項では衆議院議員湯浅凡平(ゆあさぼんぺい)氏が記した
開業までの経緯や公的文書を読みながら、
三神線敷設までの流れを追いかけていきたいと思います。
湯浅凡平氏近影→
(衆議院事務局編集、1917年衆議院要覧下巻より)

1.三神線、国会の壇上に上がる
1918年(大正7年)2月28日。
この日行われた第40回帝国議会において、湯浅議員から一つの建議案が提出された。
新見三次間鉄道建設に関する建議案
これこそが現在の三神線の歴史の第一歩である。
2.三神線建設の根拠となった法律
鉄道を作るとなれば、計画や建設の根拠となる法律が必要となる。
国鉄においては、1892年施行の鉄道敷設法が主たる路線の建設の根拠となっていた。当初は主要幹線のみ網羅していたが、1922年に改正され、新たに地方奥地への予定線が多数追加された。
三神線もその追加された路線のひとつ...かと思いきや、どうやらそうでもないようだ。
というのも当線が作られることが決まったのは1920年のこと。鉄道敷設法が改正される2年前のことなので、当線はこの法を根拠に作られたわけではないということが分かる。
かといってお世辞にも国土の基幹路線とはとても言えない当線が、改正前の鉄道敷設法の予定線リストに入っていたとは考えられないし、実際入っていなかった。
じゃあいったい、何の法律を根拠に計画され作られたの???
…答えは意外なところにあった。
軽便鉄道法である。
軽便鉄道法とは・・・
1910年公布、施行。地方での民営鉄道の建設を促すために制定された。
従来より手続きが簡略化され、かつ低規格でも建設許可が下りたため、
この法の制定をきっかけに、全国各地でローカル私鉄の開業が相次いだ。
この法律はあくまで私鉄の敷設推進を念頭においたものだ。
しかし、「面倒な手続きが簡略化される」という部分に着目した政府は、この法律を国鉄が敷設・運営する路線にも適用しようと考えた。これなら、新たに予定線を追加するために鉄道敷設法を改正するといった煩わしいことをしなくとも、国の手で地方鉄道の敷設を進められる、という魂胆だ。
こうして作られた路線は国鉄では「軽便線」と呼ばれ、現在運行しているJRローカル線でもこの軽便線が発祥となっている路線が全国各地にある。
3.湯浅、走る!
1918年(大正7年)2月28日。
この日行われた第40回帝国議会において、湯浅議員から一つの建議案が提出された。
新見三次間鉄道建設に関する建議案
これこそが現在の三神線(以下当線)の歴史の第一歩である。
ただここでひとつ、大きな謎が生まれてしまった。
唯、茲に政府にご注意願って置きまする事は、予て政府に於いて調査線として御実測になりました所の線路図を拝見致しますると、東城より庄原に至ります所の間は、東城より小奴可、西城を経て庄原に至ることになっております。この線路は頗る困難な線路でありまして、中には随分長い隧道等を設けなければならぬような、ご設計のように承って居りますが、もし之を東城より線路を変更致しまして、東城より帝釈を経て庄原に出るという道をご採り下さったならば、是は非常に良い線路でありまして、今日此の間は道路が開けて居りますが、距離の上に於いて近いのみならず、左程大きな山坂が無いのです。又河川も無いのですから、殆ど橋梁と名くべきもの、又は隧道と称すべきものは無く、随ってすぐ線路が出来るだろうと、私共実地歩いております者が確信して居る所であります。
第2回新見・庄原間軽便鉄道建設に関する建議案委員会議録より抜粋
湯浅の案では、東城~庄原のルートが現行よりかなり異なるのだ。
今日の路線が東城川・西城川沿いに進む一方、湯浅案は中国自動車道や県道23号に並行するような道をとっている。

4.思わぬ?副産物
かくして無事建設が決まった三神線。実はこれが原因かもしれない、2つの副産物がある。
ひとつ目は法律である。
上で述べたように、当線の建設決定までには貴族院を中心に大いに紛叫した。
なお湯浅はこの改正法について、次のように述べている。
本案が六千余哩の尨大なる鉄道を建設するに、第一に建設の年限が定めてない。第二には之を建設すべき予算が計上されて居らぬ。第三は鉄道の起点及終点が明確でないのである。(中略)、其等の見当が一切不明瞭であって、唯だ漠然と地図の上に敷条の赤い線を引きまして、而して是が国策なりと云うことに至っては、本員は国策なるものの甚だ薄弱なることを疑わなければならぬのである。
住居房治著「鉄道敷設法改正案と所謂鉄道網の価値」より抜粋
・・・おそらく皆さん言いたいことだろう。
オメーが始めた物語だろうが!と
あるいは自分が引き金かもしれないという罪の意識から収拾を図ろうとした、と考えるのは彼を英雄視しすぎだろうか…。
もうひとつの副産物
それはさらなる鉄道路線の建設だ。
一・木次落合線は詰まり新見三次線が産出したる副産物に過ぎません。新見三次なくして単に木次から三次まで鉄道を敷設せよと要望しましても無効なる事は何人も争うものはありません。吾々地方は新見線の為に飛んだ大なる拾物をしたのであります。
(中略)
一・要するに新見線は江津線を解決し木次線を副産し一挙に三得の利益を併有したもので有ります。
鉄道敷設確定顛末より抜粋
湯浅に言わせれば、木次線の南部区間(木次~備後落合)は
三神線開通の副産物だというのだ。
確かに木次から三次・広島に至る主要ルートは三刀屋・赤名を通る現在の国道54号ルートのはずで、脇道というべき仁多第一に考える人間はそういないだろう。
さらに三次までの国鉄線の開通は、三江線の建設も促進させる。
…それにしてもここまで名が挙がった路線は
三神線:日本一人が乗らない区間を含む超閑散路線
木次線南部:利用者数ブービー賞のこれまたガラ空き区間
三江線:日本屈指の閑散ローカル線として名をはせ2018年廃止
と見事なまでに、ほとんど誰も乗らないと現在多くの人から認識されている区間ばかりである。
湯浅、今どんな気持ちだ?
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